「死」に向き合うということ

2022年4月16日(土)

マヤ暦「夜・1」夜トレセーナ/ナイトロードG1/ハアブ暦16・POP/シカ年

昨夜、86才の父が倒れました。微熱があって安静にしていたのですが、夜中に意識が朦朧としてきて、息が苦しそうで背中で呼吸をしていることから、救急車を呼んで病院へ搬送されました。

肺炎をおこしていて、危険な状態だとドクターに言われました。

高齢者の死因は、心疾患や脳血管疾患に続いて肺炎が入っているので、ドタバタと慌てても仕方がありません。あとは本人の生命力と医療の力と天命を全うできる力を信じて祈るだけです。

最近は「アルプスの少女ハイジ」のアルムじいさんのように白髭をのばし、愛猫と日向ぼっこをするのが好きだったようです。

私はマヤ暦のデイサインで「死」というサインをもっています。

私の父は「ナイフ」というサイン。

「死」と「ナイフ」は、「死」のグループに属し、「北」のバカブ方位のグループに属しています。そして「マヤ生命樹」では一本の樹です。

私の「死」の生命樹で、「ナイフ」は根っことして私の幹を支えています。

幼少期から私は父と仲が良く、母とはいつも対立する関係でした。

マヤ暦のサインと生命樹での関係を知ったときには、なるほどとはっきり納得ができました。

「死」についてはマヤ暦のことだけでなく、私自身小さいころから「死」について考える子どもでした。小学校の時に亡くなった祖父の死のことや、キリスト教の教会学校に通っていて学んだ「イエスの死」や「蘇り」などについて、人は死んだらどこへ行くのだろう?などと、夜空を見ながら不思議に思っていました。

厚労省の資料に、日本国民の「死因」についてのデータが発表されています。

第8表 死因順位1)(第5位まで)別にみた年齢階級・性別死亡数・死亡率

死因「自殺」で命を落としてしまうのが、20~39才までが第1位、40~49才までは第2位、50~54才までは第3位です。20才から55才頃という人生のなかで一番元気で、氣が「晴れ」という時期に、自ら命を絶ってしまうことが死因のトップ3を占めていることに衝撃を受けずにいられません。

マヤ暦では20才手前で、大人になるために3回目の脱皮をします。そして51才で人生の大半をこなしてきた(ピラミッド頂上のステージ)ことを引き受ける脱皮をして、52才で「新しい火」の儀式をして新しく生まれ変わります。このメインのサイクルのあいだに、日本人は死んでしまいたくなってしまうというのは、日本における人の心・魂・精神が病んでいる、危機的状況だろうと感じます。

しかし一方で、社会や他人との距離感が持てない人たちが疎外されてしまうようになってきた現代では、逆説的に「死」はいつも身近にあるものなのに、遠い異界の地のものとなってしまったため、「死について考える、自分の死と向き合う」ことができ難くなりました。そのことが「死」への恐怖や畏怖をもつということより、端的に「逃避」「死は救い」のように、あるいはこの世で生きていたくない。もう終わりにしたい。というような「いつか死ぬ」という未来を先取りして実現させてしまうこととして身近な手段になっているのだと感じます。

それは、あたかも自分一人で「自分の死の世界への旅立ちの儀式」を行っているようなものでしょうか。

我が家の愛猫「きゃらん」が旅立った時は、娘と私でしっかりと最期を看取って、天に送り出してあげました。

ドイツの哲学者ハイデガーは、人間が”自分らしく”生きるためには、「死」と「良心」がキーワードだと語っています。なぜなら「死」はその人固有のもので、他者の死を引き受けることができない。つまり誰かの代わりに死んであげることは出来ない=交換不可能なものなので、自分だけがもっている「自分の死」と向き合うことをとおして、初めて自分を「唯一無二の存在」として理解できるようになるのだ。というのです。

「自殺」を考えるのではなく、自分が生まれてきたゆえに「死ぬ」ということについて、あるいは死のもっている力や運、可能性などについて、考えてみる。ということは大事なのだろうと思います。

いま、父は85年生きてきた今世の命の時を終えるかどうか、今が時なのかどうか、生と死のあいだを彷徨っているのだろうと思います。

苦しむことなく、天の世界へ戻れるよう、そしてあちらの世界で待っている人たちにこれから再会できるね。と伝えてこようと思います。


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