シャドウ。そして蘇り

迎春

今日ふと再認識したことがある。
無意識に潜むシャドウ(影)は陰陽道のシンボルが示す「黒」の自分なのだと。

私は「よみがえり(蘇り)」という言葉が好きだ。
よみがえりは定義上の概念では、死んだモノやコトや命が息を吹き返して、再び返り咲く様であり、キリスト教信仰の真髄でもあり、生と死、光と闇、意識と無意識という二元性のうち陰が陽に転じる・逆転する時の様を表現することばである。

 

思い込みや幻、妄想が嘘であろうが真実であろうが、そんなこと関係ない。
「我ここにあり」という「今」が、陰陽の光にあるか闇にあるかのみに世界があるから。

「言語はコミュニケーションのためだけのものではない。それは行動の一形態でもある」「失われた未来の記憶を取り戻す」

 

最近読んだ本にそんなことが書いてあった。

 

誰もが「光」だけ、あるいは「闇」だけ、であることなどありえない。

私は「占い」を「当たる」とか「当てる」という類のものとしては全く認識していない。

物理法則や哲学などを学説の摂理として知に落としてきた人であれば、因果的関係の解釈が「原因と結果」は、ある瞬間から生じる次の瞬間という過去から未来への連鎖を無視できないことを認識しうるであろう。
未来を知ることは、たんに未来を推測するとか、天の意思を伺うとかいう以前に、未来を選択できるという「自由な意思」の存在を否定しなければならない。

 

最近「トゥルーストーリー(TRUE STORY)」という映画をみた。

 

ユング心理学を学んできている私にとって、なんとも腹の奥深くに光のナイフを当てられるような感覚をもつ作品であった。
これを鑑賞したあと、私の無意識はとてつもないカルチャーショックを引き受けることとなった。

直感的に感じたのは「真実は真実として存在していなくとも真実でありうる」という感覚、そして「過去・未来とも現実には正しい形として存在するのではなく『現在』という時や心を人は無意識に都合よく演出しうるか」について可能なのだと考えさせられた。

 

私が好きな「蘇り」の定義と感覚は過去の復元や再生を意味しない。

私の信じる「蘇り」とは、それまで存在していた光と闇の混合によって形成されてきた記憶と過去が、時間と空間を超えた外側ですべてを包括している宇宙の法則により、情報や概念イメージが散々に粉砕されたのち素の型が分解されて組み替えられ、ふたたび生きる世界に異なる価値と意義をもって存在することを意味している。

「真理」と「神秘」は壮大な「宇宙」あるいはすべての頂点に臨在する「神」の夫婦・男女・陰陽の特性をあらわしたものではないだろうか。「真理」は科学や天文物理学、哲学など近代では宇宙の摂理を解き明かす神の頭脳の称号に近しい概念であり、「神秘」は神の見えない秘め事や女性性、子宮、誕生と死など表だって主張しない陰の理を具現させる概念である。
どちらか一方だけでは存在しえないコインの裏表の関係として、尊厳の座を担保しているのだと。

しかし二元論の世界には不備不足があり、因果論や目的論をつかって「知」の歴史や現象解釈を試みようとするだけでは、不可知性や超越性の仮説検証を宇宙次元的に引きあげて体験認知に誘導しうる動機や世界体験になるとは思えない。

 

 

明日という未来に何が起こるかを完全なる確信と明確な詳細をもって知ることは可能なのか?

答えは、自分の生なる器に存在する神話素(アーキタイプあるいは神の原初的な素たるなにか)が今もなお生きているかどうかを自らの精霊に問うてみないことには、答えを導き出す数式すら手に入れることはできないだろう。

 

 


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