聖書学者であられる荒井献氏は、キリスト教の牧師であられるお父様と、教師であられるお母様のご子息として、第二次世界大戦後、聖書を研究する道に進まれたそうです。 敗戦ののち、「信仰」と「知性」の狭間に投げ出され、キリスト教をその源流から客観的に探究したいと思ったそうです。
ヘルメス文書をはじめ、たくさんの偽典、外典、聖典の解釈はもちろん、グノーシス文書の翻訳もされておられる私の尊敬する方です。
さて、荒井先生は聖書を一字一句そのまま正しいと考える原理主義的な読み方をすることには批判的に考えておられます。
まぶね便りから少し引用させていただきましょう。
「英語にラジカルという言葉がありますね。ふつう『革新的』と訳されています。この言葉の語源はラテン語の『根っこ』(ラジックス)です。ラジカルに考えるということは、根っこに身を置いて、そこから批判的に自分やものごとを考えることです。聖書解釈では、ラジカルであることが大事です。…」
「聖書の読み方は、時代によっても立場によっても異なります。聖書がわれわれに問いかけてくるのです。どこに自分の根っこを置くか、どこに中心をすえるか、われわれ一人ひとりが聖書を批判的に読む必要があります。」
「人間は愚かだから、つい自分が正しいと確信してしまいます。自分に対してもラジカルな批判が必要ですね。そして人の批判を受け入れなければなんらい。 どの人間も絶対的だることはできない。聖書を読むということは、自分を批判して相対化していくことでもあります。…」
英語では、「ラジックス=radix」を「根」「ルーツ」とも、「根原」とも訳します。もとになるもの、いわゆる「根っこ」に相当する象徴を含むことがらを表現するのですよね。
この根っこが無意識を表現するのにぴったりであることから、荒井先生の上の文章の「根っこ」を「無意識」に置き換えてみてください。
ぴったりしませんか?
〔ラジカルに考えるということは、<無意識>に身を置いて、そこから批判的に自分やものごとを考えることです。〕
〔どこに自分の<無意識>を置くか、どこに中心をすえるか、〕
聖書の解釈をするということは、文字通りただ理解するのではなく、生きた言葉として受け取ることによって、初めて言葉が生きたロゴスとなるということではないでしょうか。
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