無意識の秘密

無意識の秘密


無意識…

 1  
夢…
 
 夢とは自分の意識から離れて、全能者と超自然的な無意識の世界へと移行することの出来る現実です。
 眠りがその入り口です。
 多くの精神分析者、心理学者、研究者は夢を分析したり解読して、その人の精神状態を知ろうと努めますし、実際にそうすることで、夢がそれを理解するのに役立っているのも事実です。 夢解釈のためのヒントをつかんで、夢占いをしたりする民間療法もあるようです。  夢の中では事実、何でも可能です。空を飛ぶことも、怪物と対決することも、好きな人と食事をしたりデートしたりすることも、何でも出来ます。さらに欲しいものは何でも手に入りますし、恐怖映画顔負けな恐ろしさも体験できます(~o~)
 カール・G・ユング博士も夢を詳しく分析されました。自身の体験から認識するに至った経緯も自伝の中で述べています。ユングは夢の中でピレモーンという羽のある生きもので、牛の角をつけた老人に出会っています。彼はカワセミの翼のような特徴を持った翼をつけていました。そして、共時性という超自然の働きの力によって、スイスの自宅前で、カワセミが落ちて死んだのを眼にするのです。 ユングにとって、ピレモーンは、自己の象徴であり、意味深い存在になりました。 夢は睡眠状態と覚醒状態の意識の違いを超えて、あるドラマが持続的に進行していることを示すに至ったのです。
 私自身も、夢を見るのが大好きですが、夢によって、かなり現実の世界で助けられていますし、学ばされますし、癒されているのです。それはどのように?と思われるでしょう。 そこで、他の人には参考になるかどうか分かりませんが、私自身の夢を解釈して認識してきた方法の1つを紹介しましょう。
 
 私には、44332という私を導く指導霊がいます。 ユングにとってのピレモーンのような存在です。そして44332は、私の意識が理解できないような事柄は、色彩や形、象や記号など、また不規則な模様や影、ひらめきに近い瞬間的映像などで、無意識の奥深くに備わった力を引き出してきて、認識させようとしてくれます。 それはあたかも、真っ白のキャンパスに描かれた絵のようであり、また、メロディーであり、意識に浮上させるための手段になっている魔法の鏡なのです。
 不思議ですよね。
そこからヒントを得て、自分が知るべき事柄を認識したり、得るべき情報を調べたりすることが出来るようになります。
 たとえば、自分がある事柄についての理解をすることによって、自分の悩みや現実問題が解決できるようになるとします。しかし私の意識はそれをどのようにして知るのかを知りません。 そして今朝見た夢を解読しようと、まったく関係のない事で図書館に行き、何気に本を手にとります。すると、その本の中に答えが隠されていた…! というような具合にです。これはユングのいう共時性が働いている証拠です。
 これはあくまでも私自身のやり方ですから、他の人にも同じように働くかどうかはわかりません。 けれど、自分の無意識を真実として受け入れ、知りたいと願望を抱き、夢を信じることが出来るならば、そのような道を辿ることも可能なのではないでしょうか。
 夢には、その人の現実の意識に隠されてしまった深層心理が映し出されていることが多くあります。 自分の心の扉を開くことが出来るのは、夢先案内人かもしれませんよ・・♪
(私の見た夢の絵を『象徴するギャラリー』にのせています)
 

 2   霊を見分ける
 
キリスト教では、霊を見分ける必要を説いています。
「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。」ヨハネI 4:1
「イエスを告白しない霊はどれ1つとして神から出たものではありません。」4:3
「…神からでていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。」4:6
 
霊を見たことも、霊の声を聞いたこともないひとがいったいどのように霊を見分けられるのでしょうか…?!
 
私は無意識には人格があると思っています。
普段意識している自分とはまったく違う無意識的な人格は、そのひとの外面的人格を形成するための働きを手伝いもしますけれど、内面的な人格を形成してゆくため、その人が気がつかないようなやり方で、補正的な役割を保ちながら、まったく意識されないところで助けてくれていると考えるからです。
 無意識的な―たとえば夢の中だったり、幻想や幻影、瞑想中のような―領域では、真実を認識する力が養われているように思うのです。そして、その人の内面にとってright on time のときに、その力は働くことが出来るようにプログラムされているといってもいいかもしれません。
そのとき、人は無意識を通して、霊を見分ける力が備わるのだと思います。
そして、それは時として、その人を恐怖に陥れるかもしれませんし、不安や妄想のような形をとってしまうこともあるかもしれません。なぜなら、それは確実な道を通っていないからでしょう。 恐れがあるところでは、恐れのほうが勝ってしまうことが多いからでしょう。
 
 むやみやたらに無意識を神聖化しないこと。そして、無意識的な領域を自分の心が受け入れるときは、神的なことがらに注意深く、神話素にも元型にも忠実であるかを見極めることが何よりも必要かとも思います。
 
 霊を見分けることを望むならば、無意識のうちに、やはりキリストに願い求めることが一番かもしれないですよ♪

 3   ミツバチのダンス
1954年、グラーツのフォン・フリッシュ という方が、ミツバチの生活の研究を発表しました。 タイトルは、「The Dancing Bees」 です。
 ミツバチはある特殊なダンスをすることによって、おいしくて甘い蜜のある場所を、仲間に正確に知らせることが出来るというものです。 そのダンスをすることによってその情報を受けた仲間は、方向と距離を知り、まっすぐに蜜の場所まで飛んで行ける!というものでした。 
 そしてこの種類の通信は、原理上は人間活動における情報と異なるものではないそうなのです。また、この観察は、超大脳的な思考と知覚が存在しているということを、証明していることになるのだそうです。
 ミツバチは、ことばで知らせることもなく、いっしょに蜜の場所まで連れていくことなく、特殊なダンスによって、どのように蜜の場所を仲間に知らせるのでしょう…?!
 ミツバチは魔術を持っている。とか、超能力がある。とかでしょうか? ミツバチも意識と無意識を持っていて、無意識のうちにダンスで知らせるのでしょうか…。 本能だからじゃないの? という声が聞こえそうなのですが、私には超大脳的な思考と知覚こそが、無意識のなせるわざだと思うのですが、いかがなものでしょうか。
 みつばちの世界については、画像にリンクしています。もっと詳しく知りたい方はどうぞ♪
 

 4   蚕の繭づくり
小学校では、カイコを飼ってみようという総合の学習があります。蚕の繭づくりは本当に神秘的で不思議な世界です。
 「かいこはなぜ繭をつくるか」農学博士の伊藤智夫さんが書かれた本ですが、そこから内容を参考抜粋しながら、かいこと無意識の関係について述べてみようと思います。
 孵化したばかりのカイコは、食物を探し求めて動き回るそうです。そして、食物をみつけることができずに、絶食の状態が続くと、自分の周囲に糸を吐くようになるそうです。なぜ糸を吐くのか、その理由はまだわかっていないようです。 ある時期がくると、だれかに命じられたかのように、前もって設計するわけでもなく、ひたすら建造物である繭をつくることに熱中するのです。 その行動はあまりにも計画的なので、本能というような割り切った説明だけでは、本質の解明にはならないようです。
 「繭をつくることは、だれからも教えられたのでもなく、もちろん自分で学習したのでもない。このようなたぐいの行動は、本能と呼ばれている。 本能行動とは、生体内に遺伝的に組み立てられた生得的プログラムが、順次開発される一連の行動のことをいう。繭をつくるカイコとしては、その目的を知ってはいないのに、繭づくりを行わなければ(吐糸しなければ)、さなぎになることも、生き残ることもできない。つまり、個体としても種族としても維持をはかることができないのである。」
と述べられています。
 
「さあ、繭をつくろう!」  とか、
「寒いから繭のおうちをつくろう!」
などという意識すらないのに、あの小さなかいこが数時間かけて、足場をつくり、不眠不休でおよそ二昼夜かけて繭づくりを完成させるのだそうです。 すごいですね(;O;)
 
 カイコが繭をつくるのも、やはりミツバチのダンスといっしょで、超大脳的な思考と知覚がそうさせているのではないでしょうか。
 人間も生物ですから、生体内に遺伝的なプログラムを持っていますよね。 意識しないで行う行動や、眠っているときに知覚すること、また出産という不思議も含めて、意識のなせるわざではないものをも、ちゃんと持っていますね。
自然や植物、昆虫や動物など、様々なところで、その秘密のヒントを得ることが出来ると私は信じるのです。

 5   瞑想
ユングは、錬金術的な伝統の探究を通して、自分自身の直接的でかつ個人的な
無意識への下降によって得ることができた体験と洞察の数々を、類似している素材に
結びつけ、そうすることによって自分の体験や洞察をやっとことばに表すことができたのだと述べています。無意識の世界を知りそれを表現することは、ユングにとって自己表現の全てであり、ユングの使命であったとも考えられます。

さて「瞑想」というものを少し考えてみましょう。
国語辞典で調べてみると、瞑想は「目を閉じて静かに考えること」に類似する定義として意味を与えられています。宗教の世界でも、瞑想は邪念を振り払って心静かに己自身または神と対話することであったり、心を無や空にするための修行であったりしています。

ユングは「瞑想」の定義を「眼には見えないけれど、そういう何ものかと心の内で対話を行う場合の様子」として用いています。
また、錬金術師らが口にする時の「瞑想」ということばの意味するところは、単純に
「熟考」というようなものではなくて、むしろ「内的対話」のようなものであるとしています。
つまりそれは、呼びかけに応じる内なる声=無意識の声との対話であるということなのです。ヘルメス哲学の格言でも言われているまさに創造的な対話を意味しているのです。

たとえば、目を閉じて静かに心を空っぽにしているとき、ふと心に浮かんできたイメージや音声にならない声のような、不確かで不可思議で、超自然的なものと対話しているような感覚世界のようなものが、「瞑想」だと言えるのです。

心理学の専門家や臨床医師らにとって、「内的な対話」は無意識との交流をはかるために又対決の表面化を誘うために、重要で馴染みのあるもののようです。
そのような技術を通じて、精神が統一されるための試みがなされているのです。

「心静かに無意識なる声と対話する」瞑想とは、どのように行われるのでしょう。
ピノキオというお話しをご存知でしょうか?
ピノキオが人間になりたいと思ったとき、女神さまは「ピノキオの良心に」と言ってピノキオにアドバイスをしてくれるコオロギの遣いを送っています。
それこそが、無意識の声なのです。
無意識の良心の声を聞くことで、ピノキオは人間になれるのですね。
それと同じように、私たち人間は無意識から送られてくるイメージやメッセージをありのままに受け止めることで、本当の人間になれるのです。

瞑想は、私たちの心の声を聞くための方法のひとつです。
ただ一つ問題なのは、心の声はいつも良心であるとは限らないということです。
それは人間の姿をしてやってくる悪魔の声もあるからなのです。
私たちは人間である以上獣的な欲望や願望を持って生まれています。
獣的な欲望は獣を支配する悪魔の世界と繋がりやすいのです。
決して全てが良心の声だと信じるのは危険です。自分が神に向かって正しいときにのみ良心が無意識に現れてくるのです。しかし、心に傷や病を抱えていたり、小さいときのなんらかの事がずっと無意識に潜んでいたりすると、友好的な現れはしないかもしれないのです。


瞑想…
あなたが一人心静かにしたとき、あなたの心を制御することが出来るのは、あなたの意識でしょうか?それともあなたの無意識でしょうか?
世俗的な欲を捨て去ることが、瞑想にとっては最高の栄養だということです。