魔術

あなたは魔術が
本当にこの世界に存在するって知っていますか?


魔術は無意識を通して、その存在を主張するかのように顔を出します。
どんなに隠れても、必ず最後は見つかるのがかくれんぼです。
探し出すことの出来るのは、
あなた自身の無意識だけです。

1    魔術
  魔術とは、コミュニケーションの一種であって、操作する者とされる者の間にある特定の意味が共有されていない限り機能することの出来ないものなのです。
 コミュニケーションとは、言葉・音・形態・色彩・匂い・身振りなど五感を使って識別できる記号表現を通して、発信者と受信者が情報・感情・意見などを共有する行為だと定義されるものです。
 コム(=共に)という語源からは共有する人々の集団を意味しています。
 魔術の場合、コミュニケーションの発信者は魔術師であって、受信者は魔術師本人の場合もあれば、別の人間あるいは人間以外の存在の場合もあります。そして共有されるものは、神的なエネルギーなのです。
 魔術師は人間あるいは自然存在に内在する神的なエネルギーを起動させて、受信者の神的なエネルギーを共鳴させようとするのです。
 言葉・音・色彩を媒介とするコミュニケーションの高度に発達したものが、詩・音楽・絵画などの芸術であると言われています。 その場合に、共有されているものは美意識あるいは神秘体験なのです。
 
 詩人や芸術家は、その美意識あるいいは神秘体験を具体的な表象を通して外在化させ、人々はその表象を通して詩人・芸術家と世界を共有しようと試みるのです。その意味においては芸術は魔術と重なる部分が多いのだそうです。
 
これは、西洋象徴哲学の系譜「フリーメイソンと錬金術」第二部から内容を一部抜粋させて頂いたものです。
 
 私たちが日常、目にしたり耳にしたりする全ての事柄は、共有する「コム」の一部なのです。 たとえば、私が大好きな歌を歌ったとしましょう。すると、それを聞いたあなたが「まあ、素敵な歌!」とか、「素敵な声!」とか、「迷惑な雑音!」とか、「懐かしい曲!」とか様々にキャッチします。このときの発信者は私で、受信者はあなたですよね。また、その歌が私の作詞作曲した歌だとしたら、そこには私からのメッセージが込められていることになります。
 このメッセージが伝えたい「特定の意味」を持つことで、神的なエネルギーを起動させて相手に伝えることができるのです。
 
 コミュニケーションは人と人が生きることを共有するための手段です。
 そのような意味を理解した上で、魔術というものを見てみると、魔術とは単なるおとぎ話やファンタジーの中に出てくるありえない術などではなく、人々が真剣に生きる日常の中に隠れているのだということが理解できます。
 
 これであなたも魔術師になれると思えるようになりました…ね♪
 

2    男が男でなくなる時…女が女でなくなるとき
 
 
人は年を重ねるごとに、肉体はその力を充満させることを怠り、精神はその肉体の疲れに妥協をするようになります。青春を生きた時代には、疲れを知らずに遊びや仕事に夢中になれていました。老いを感じる年になると、疲れは肉体の主張となり、精神が弱ってしまうことを今か今かと待っていたかのように、襲いかかってくるのです。しかし、年を重ねるということは、それだけでしょうか?! それでは、いったい何の為に苦労を重ね、経験を積んできたのでしょうか?
 
そこには偉大な秘密が隠されているのです。
 
人の齢を100歳としましょう。人の一生を山登りに例えれば50歳は頂上ですよね。
でもそれは間違いです。 生まれてから12年間はまだ山登りをしていません。 地上で、山に登るための勉強や訓練をしているのですから。
13歳…中学生になって、やっと山に登るための土台を築き始めるのです。
そして、80歳を過ぎてからの20年は、はやり山登りはしていません。自分の人生という山登りを終えて、様々な体験と経験と感動と意見を持って、山登りを静かに瞑想する時期なのです。そのとき人は、山登りの体験を人々に語ったり、伝えたりして歴史を受け継ぐのです。
ということは、本当の山を登って降りる時期は、100年のうち、68年間です。
人が自分の頂上に立つのは、だいたい100−12−20=68 68÷2=34
34+12=46 ということで、46歳。
人生を100歳として、頂上付近に立つのは、46歳ですよね。
もちろん、山の形にもよります。急な坂を昇るのに、下りがなだらかな斜面の山とか、だらだらと平坦な道の山が急激な斜面になる山とか・・・
しかし、人生を山登りに例えたとき、とても参考になるのが、男意識と女意識なのです。
 
生まれて12年、そして100歳前の20年間は、男も女も、共通点がありますね。
それは肉体として見た場合の男女の違いは無い次期ですよね。
12歳までは、女の子もまだ妊娠はしない時期がほとんどですし、男の子も同じでしょう。
そして80歳を過ぎた婦人も紳士も、ほとんどの場合は12歳前と同じ状態に戻っているでしょう。
 
男が男でなくなる時、女が女でなくなるときこそが、もうすぐ頂上だよ!という知らせなのではないでしょうか?
 
かつての日本にまだ神話が生きていて、
神の霊感を受けたという巫女が霊媒師として活躍していた頃、人々はこう言い伝えていたそうです。 女性がその役目を閉じる頃になると、霊感が非常に強まり、神との交信が出来るようになることが多いと。祈祷師や霊媒師、占い師など、交霊術を行う人にはそのような言い伝えがあったそうです。
男性も女性も、人生の頂上が近くなるにつれて、天に近づいているのです。
天は人の上に人をつくらず。人の下に人をつくらず。とは、福沢諭吉の名言ですが、そのように、天に近づくということは、男女であることに関係なく、本来の人間としての自分に気づき、頂上で天を仰ぐような素晴らしい景色を見ることに近づいているということなのですから。
 
偉大な秘密… それは男女という意識を超えたところに隠されている宝なのです。
そこにある視点を得られるということこそが、頂上に登るという意義なのです。
天にも昇る思い…と人はよく口にしますが、天にはキリストのように昇天するのではなく、自分の人生の頂上である天に自分で登っていくことを意味しているのではないでしょうか?
だからこそ、愚かで欲深い人間が、頂上から見る天の景色の素晴らしさに心洗われて、その後の人生に実りを得られるのではないかと思うのです。
 
人は、自分の肉の習性を自分の力では消し去れないものなのです。だからこそ、天の力が必要なのでしょう。
 
頂上に向かっている人よ、
頂上に立とうとしている人よ、
頂上を体験して下ろうとしている人よ、
頂上がまだ見えなくて、苦しんでいる人よ、
 
天の力を求めてみましょう。
自分の人生を信じてみましょう。
男も女も必ず自分の頂上があるのですから。
 
 
 

3    サン=マルタン 自然の解読
キリスト教徒で神秘主義者でもあったサン・マルタンは「言語」について次のようなことを述べています。
 
 言語とは、その最も厳密な意味で言えば、創造の源から各存在に与えられた性質の明白な表現と見なすことができる。
 我々は、三種類の言語を所有していることになる。
 
1) 我々の肉体的現存のみから成る、物質的存在の言語
 これはもっとも単純な、直接的な言語であり、存在の働きと言語が一つになっている。
(たとえば自然や自然を作り上げているあらゆるものは、『無言』という働きを通して、自らの性質を活動的に、そしてありありと示すように、沈黙のうちに事実そのもので、表現するような存在自体が言語を含むということ)
 
2) 我々の叫び声や、本能的行動によって表現し得る動物的感情のすべてからなる、感覚的存在の言語
 動物の鳴き声や、様々な本能的行動は動物の欲望、欲求の表現に過ぎず、1)のような存在を表現する言語のように一体とはなっていない。
 
3) 我々の観念の働き、精神的感情の彩りに関係するあらゆるものを言葉によって表現する力から成る、知的な存在、愛を知る存在の言語
 人に伝えようとする思考、知性、内心の運動からさらに隔たり、距離のある記号
 
私たち人間は、2)のような欲求をありのままに言語として表現することは、赤ちゃんを見ればわかるように、体験しています。
また、3)の言語こそ、大人になるに従って取得する最も知能的な言語であり、人間だからこそ与えられた思考ゆえの言語能力です。 ところが、1)の言語を私たちは、体得して持っているでしょうか?
私たち人間も、自然の一部です。ということは、存在の働きと言語が一体化している物質的存在の言語を所有し、使うことができるのです。『無言』という働きを通して…!
 
 自分が心から愛する人の前にいるとき、『無言』の働きを通して、また、沈黙のうちにも、自分の愛を伝えようとしますよね? また、愛する人の死に直面したとき、言葉なくしても、その悲しみは、伝えることが出来るでしょう。 そのような存在自体の言語は、サン・マルタンによれば、れっきとした言語なのです。 時として人間は、言葉を多く発しすぎて、相手の誤解を招いてしまったり、傷つけてしまったりと間違いを犯してしまいます。言葉を発しなくとも、伝える方法が言語として成り立っているのですから、その方法を用いて、会話をしてみることも自然の一部である人間として、大切なことなのかもしれません。
 
 

4    無意識の概念と象徴
 
ユング博士の数多くの文献の中から、無意識に関して説明している箇所を引用しながら、私的な解釈のもとに少し無意識を表現してみようと思います。
 
「分析心理学は基本的に自然科学である」
分析心理学を自然科学と認識するに至り、ユングは以下のように述べています。
「私はまもなく、分析心理学がはなはだ珍しい方法で錬金術に符号することを見出した。錬金術師の経験は、ある意味では私の経験であり、彼らの世界は私の世界であった。錬金術との対比の可能性と、グノーシスにまでさかのぼる不断の知識の鎖は、私の心理学に骨子を与えた。」
 
ユングは心理学という非常に説明の難しい心の様相を表現するにあたり、錬金術の中に、またグノーシス思想の中にその元型を見出し、骨子を与えたと表現し、尚且つ”私の世界であった“と説明していることは興味深いことですね。 同時にまた、ユングは夢の中にも無意識の世界を表現する意図が隠されていることを明らかにしました。
「…夢の目的は、自我―意識と無意識との関係の逆転をもたらし、無意識を現実の経験をしている人格の発生源として示すことにある。 この逆転は、『あちら側』の意見によると、無意識的存在が本当のもので、我々の意識の世界は一種の幻想であり、夢の中では夢が現実であるように、特殊な目的に従って作りあげられた見せかけの現実ではないか。従って、無意識の全体性は、すべての生理的・心理的事象の真の精神的指導者であると思われる。 そこには、全体性の実現へ努力する原理がある―それは人間の場合は、全体の意識化の達成を意味している。」
 
ここで少し、私が平行して研究しているナグ・ハマディで発見された古文書の一部、特に聖書外典としては有名な『ピリポの福音書』と呼ばれるテクストの一部を引用してみましょう。
「この世の農業は4つの事柄から成り立っている。人々はそれらを、水と土と風と光によって、刈り取り、倉に収める。そして、神の農業は同じように4つから、つまり信仰と希望と愛と知識から成り立っている。われわれの土は信仰である。その中にわれわれは根を入れる。水は希望である。それによって我々は育てられる。風は愛である。それによって我々は成長する。しかし、光は知識である。それによって我々は成熟する(S115)
 しかし、知識によって自由になった者は、愛の故に、知識の自由をまだ受け入れることのできない人々に仕える僕なのである」
 
ここでは、個性化―自己実現、または自己認識に至る過程を、ピリポの福音書ではこの世での農業になぞらえて表現しています。その成り立ちのプロセスを信仰、希望、愛、知識であるとし、そして土、根、水、風、光がそれらと対応して成立することを表しています。これらは、ユングのいう無意識の全体性を築き上げることと同じ過程であることを、その象徴の中に見出します。
 
では、ここでまたまったく別の視点から、無意識の象徴を見てみましょう。
ある解剖学の研究をされておられる方が、脳についての解剖用語として述べていた箇所を引用してみます。
「“小脳の活樹体”はラテン語では命の木(アルボール・ヴィタエ)を意味する。小脳の断面図は、樹皮状の灰白質と白質がたがいに入り組んで、木の形を連想させる。…脳を切断すると、断面にうっすらと淡く黒味を帯びた部分が肉眼でもはっきりと見える。黒質はうっすらとして、そこはかとなく淡く黒ずんでいる。古代中国の老荘思想で言う『玄』という感じの色である。『抱朴子』という奇書では、玄とは、自然の始祖、万物の生まれ出る大本である。ぼんやりと暗く見えるほどに深い。だから『微』とよばれる。ぼおっとかすむほどに遠い。だから『妙』とよばれる。この宇宙の根元にひそむこの黒い色は、下に沈んで幽冥界の底深くしずみ、上に浮けば北極星をもしのぐようになる。この黒色“玄”によって、天は高く、地は低く広がり、すべての生命の源になる。天の黄道帯をめぐる28宿の星座をはりめぐらすもこの“玄”であり、時間という神秘的な機構を駆動するのもまた“玄”の働きである。…ひとたび“玄”が出れば肉体は崩れ、精神は四散する―と抱朴子は語る」
 
これは、小脳の断面図に、“玄”という感じの淡く黒味を帯びた部分を見出した解剖学者であるこの方が、その色の神秘色について老荘思想の根元を深く感じ取っておられるのです。そして、それはあたかも、脳の中に無意識という黒質層が現象化されて存在しているように、私には思えるのです。
 
無意識の存在は、実際にこの肉眼に見える現象としては本当に少ないのです。無意識の領域をこの世にある言葉を使って表現することは、あまりにも深く、広く、大きくて、まるで宇宙をことばで言い表せと言われるほどに大変なことだからでしょう。さまざまな学問において、又、芸術において、その究極の存在の象徴を求めて、私たちは学ばされているのが現実かもしれませんね。
 
ちなみに私の無意識は、金色の巻物が羽を付けて飛んでいる様子を象徴しますし、7段の引き出しから常に流れ出る知識の泉を具現化します。(#^.^#)
 
 



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