無意識という言葉の意味

この世界には、何千種類もの「言語」があります。
英語、ドイツ語、中国語、ヘブライ語…
そして日本語だけでも、同じ「言葉」なのに違った意味を持つことばは
たくさんあります。 
さらに漢字まで含めて突き詰めていくと、大変なことになってしまうほど、
言葉の意味は多種多様に存在しています。

私は「ことば選び」のための「実用事典」というものをよく使いますが、
たとえば 「きく」 というたった二つの文字に、どれだけたくさんの
類語があるか、異なる意味を持つ言葉として存在しているかを知ると
本当に驚き、また感動します。

「聞く」や「効く」が其々の漢字を伴って違った意味を持つ語を
形成します。

「視聴、幻聴、他聞、早耳、即効、有効…」

そのようにして、「きく」という言葉を知っていたとしても
「自分が知らない」または「自分が気づかない」「自分の知識外の」
意味を含む言葉が何十も存在しています。

自分の表現したい気持ちを忠実に正確に表現しようと思っても、
適切な言葉が思いつかなかったり、
表現の仕方がわからなくて間違った言葉を
選択してしまったりする経験は誰しもが持っています。

そのようなことからわかるように、
「無意識」という言葉を自分の知っている範囲の
単なる一つか二つの意味でのみ解釈し、認識してしまうと、
それ以上の理解は深まらないことを意味します。

「無意識」という言葉を一般的に私たちが考えたり、使用したりするとき、
「無意識にやってしまう」「無意識に選んでいる」
「無意識にしてるんだからしょうがない」
などのように、あたかも自分の考えとはまったく違うところで
思考したり、弁護や弁解したりするようにして使うことが多いようです。

そのような意味として使用することは、もちろん間違ってはいません。
先ほどの「きく」という言葉に多様の語彙があるのと同じ事です。

そしてこの「無意識」には、もっと別の意味があるのだということも、
先の「きく」と同様認識出来ると思います。

「無意識」という言葉には、それらとはまったく違う解釈がある
ということを世に広め、説明することで、
現代心理学や人の心の深層を解明するために、
どれほど貢献的要素を提供してくれたのかは測り知ることが
出来ないほどだと思います。

C・G・ユングは、心という観点を中心として多くの象徴を
紐解いていくとき、そこには意識とは似ても似つかないだけでなく、
自分の無意識ですら理解することのないような、
普遍的・集合的無意識という世界にユングは出会うこととなったのです。

そして、その「集合的無意識」にあったものは、何百何千年という
時の流れの中でもまったくといっていいほど変化を示さず、
二千年前の真理もなお色あせることなく、
現在過去未来のどの地点においても同一であり続けてきた、
基本的な心的諸事実を見いだしたことをその著書の中で述べているのです。

無意識がどれだけ、意識に貢献し意識を支えているか、
無意識がどれだけたくさんの要素を送り込もうとしているか、
私たちが知らないだけだと思います。

また、この「集合的無意識」という何だか不思議で
理解し難いような心の奥深くのことを
ヘーリッヒ・ノイマンという学者は、次のように説明しています。

「ユングは集合的無意識の構成要素を元型ないし原イメージと
名づけた。 これらは、本能がイメージの形をとったものである。
何故なら無意識はイメージの形においても意識に示され、
夢の中でもそうであるが、イメージとして現れて、
意識の反応や摂取を促すからである。」

「意識の起源史」上 P17
ヘーリッヒ・ノイマン著 林道義訳


得体の知れない「集合的無意識」というものを構成している要素を
「本能がイメージの形をとったもの」
と表現しているのは、何とも面白い表現だと思います。

また、無意識と自分との関係については

「自我の無意識に対する関係、および個人的なものの超個人的なもの
に対する関係は、個人の運命を決定するのみならず、
人類の運命をも決定する。
この対決の舞台はしかし意識である。」(P29)

ここで彼が言っているのは「その人の運命を決定する」ほどに
影響力を持つ「無意識」は
「意識」という舞台で「対決」しているのだというのです。

これらは「無意識」の意味することのほんの一部に過ぎません。
「無意識」が意味するものは、本当にたくさんあるということなのです。

無意識という言葉の意味を、たとえ全て理解できなくとも、
私たちは「無意識」について
もっと理解を深めてみようとする姿勢は大切なのではないでしょうか。
何故ならその「無意識」こそが、自分の意識という舞台に
ともに立ち上がり、自分の人生をよりよいものへと導くための
一つの大切な要素だからに他ならないのです。