★イエス・キリストの生誕

イエス・キリスト生誕の神秘については、キリスト教の信者だけでなく、多くの謎を解明しようと学説や資料を研究している人たちも含めて神秘のベールの内側を認識しようとする人々は後を絶ちません。

C・G・ユングもその一人でした。また、脈々と流れる永遠の命から湧き出る水を、乾く大地に注ぐことを使命とした歴史上の人物も少なくありません。

宗教という枠の中だけでなく、外側からも上方下方からもキリストを追い求め、異端となった経緯や原始キリスト教の背景、密儀や神秘思想、錬金術へと影を潜めて象徴の裏側に生存し続けた真実の証しもまたキリスト教を支えてきたことに変わりはありません。

すべてにおいて言えることは、イエス・キリストの人間性や性格を知ろうとしているのではないということです。

私たちは、彼が神の子であること、三位一体の真実、イエスの教え、聖霊の世界、黙示や福音のほんとうの意味と価値概念などを、一体どのようにして認識できるのか、真実の出来事として受け入れることが出来るか、救いの本質は何なのかなどを探ろうとしているということです。


★聖書正典

聖書神話の中には、あまりに美しく、残酷で、汚れない存在がいくつも象徴されています。イエスもそうですが、アブラハム、モーセ、エゼキエル、ダニエル、ダビデもみな信仰によって勝利を勝ちとった人として語り継がれているのです。

聖書を読んだことがある人なら解ると思いますが、とても難解な表現方法であったり、ストーリーがファンタジーではないかと思われるようであったり、また人の名前の多さにも驚嘆することがあります。
聖書を文字通りに読んで、理解しようとするとそれはとても困難なのです。


★聖書にまつわる古文書

イエスと彼の伝道の歩みを補うために、エジプト近郊で発掘された初期の写本に基づいて数冊の本も出版されています。
もっともなものもあれば、信用できそうにないものもあり、議論の余地はあるのでしょうけれど、写本が見つかったことで、更なる奥義を探究できることは間違いのない事実です。

ヨセフとマリアはエッセネ派という共同体に属していたとも言われることからイエスもそうであったという説もあります。
また、イエスがギリシャとインドの両国を訪れ、そこで東洋を学んだとも言われ、初期のキリスト教の記録がチベットに存在しており、セイロンの仏教修道院の僧侶は今でもイエスが彼らとともに滞在して哲学を精通したことに対する記録を保存しているとも言われています。


★エッセネ派
ここで、少しエッセネ派について説明をしましょう

エッセネ派とは、キリストが誕生した西暦紀元の数世紀のあいだに維持されていた、小集団であり、神秘的キリスト教という名のもと共同体として存続していたキリスト教初期のシリア派です。

エッセネ派は、哲学者や神秘家の小集団であり、又密儀参入者として、異教集団としても知られている人たちの群れでした。
エッセネという名は、「医師」を意味する古代シリア語に由来すると考えられています。
また、エッセネ派の起源はエジプトか東洋に由来するとされています。

エッセネ派の人々は、自分たちの存在の目的が、精神・魂・肉体上の病人を治すことにある、と考えていたようです。また、エッセネ派の人々は決して商人となったり、近代的な生活に入ることはなく、農業や羊を育てて羊毛を取ったり、陶器を製造したあり、大工の技術などによって、自活した生活を送っていたとされています。エッセネ派の象徴には、大工仕事に使う多くの道具が含まれていたため、霊的で哲学的な神殿を建設していたとも考えられています。

キリスト教正典福音書や外典では、イエスの父であるヨセフは大工であり、陶器職人であったとも言われることから、イエスの良心であるヨセフとマリアは、エッセネ派の構成員であったと信じる人々もいるのです。

イエス・キリストを知らない人はほとんどいなくても、エッセネ派を知らない人は多いようです。
また、エッセネ派のひとたちはユダヤ人のなかでもより秀れた教育を受けることが出来る階級に属すると考えられました。

また、エッセネ派の人々は、グノーシス主義者たちと同様流出論者と呼ば
れます。
彼らの目的のひとつに、彼らの主義に基づいて霊的な秘密の鍵である「モーセの律法」を再解釈することがありました。エッセネ派は、聖書で約束されている「メシア(救い主)の到来」を待ち望む、カバラ主義者であるとも信じられています。

エッセネ派に属していたとされる、マリアとヨセフは、敬虔な信仰を持っていて、聖なる心を持った魂でした。

イスラエルのために働く「メシア」の到来を夢見ていたヨセフとマリアは、「神」に奉仕することを誓い、偉大な魂が到来するための肉体を用意するようにという、エッセネ派の大祭司の命令に従ったのです。

そのようにして、マリアは無垢の受胎によって身ごもり、イエスを生んだ
とされているのです。


この「無垢」という言葉は、超自然や不思議などというより「純潔さ」「聖さ」「純粋さ」を意味するものでした。
かくしてイエスは生まれたのです。

イエスは、エッセネ派によって育てられました。エッセネ派の階級が意味するように、イエスは教育を受け、後には「密儀」の深い思想にも通じるようになり、秘密の教えを習得したのだとも言われています。


このような説が正しいかどうかを判断することは、私には出来ません。
でも、イエスがエッセネ派によって育てられ、高尚な教育を受け、後に深い密議の思想に通じ、世の人に秘密の教えを伝授するために旅をしたという説を無視するには、あまりにも真理に反するように感じてしまうのです。


★神秘的キリスト教と思想

人間の目に見えない本性は、理解力と同じように広大で、思想と同じように測ることができないものです。
古代から中世にかけて密議が生きて人の信仰と救済を支え、また物質世界から心霊精神世界へと弟子入りできた時代には、人々は自らの知力では知ることも認識することも出来ない世界があることを前提としていました。
啓示も幻視もその神髄を主張する位置を獲得していたのです。

神秘的キリスト教を学び、密議参入者としての秘儀を伝授されたという仮定に基づいてイエスの足跡をともに辿ることは、私にとって史実とともに真実に近づく一歩となったことは言うまでもありません。

何故なら、イエス自身が本来意図した活動や、喩えを用いて伝えようとした概念、また象徴することでしか伝えることが出来ないとされる高次の世界は、私が聖書から読み取った認識となんら違うものではなかったからなのです。

イエスがクリストス(キリスト)という名前として現れたことは、後世の私たちにとって長子となることを意味していたのです。
「神性」という性質を持った神的な人間は、人間の救済への希望となり、すべての人間に内在する潜在的な神性が備わっていることを意味していると考えられるからです。

ユングの言葉で表現するならば、その「神性」「クリストス」「神的な人間」こそが、「原人間(アントローポス)」であるということです。
そして、この神的な「自己」との和解によってのみ不死の「自己」との結合が可能となり、救済が実現されるとともに個性化過程の自己実現が完了するということになるのです。

象徴哲学体系において、マンリーPホールはイエスが神の啓示を受けた人間であるが故に、神的な力の化身やクリストス(人間神)であると混同されたと述べています。 クリストスはすべての人間に閉じ込められている人間神(原人間)であったので、自分の中にあるクリストスを解放することで再び結合することを果たした人こそが、本来の意味のクリスチャンであるとしたのでした。


★ユングの無意識の世界と種一弓の無意識概念

ユング心理学の無意識の概念や定義を学ぶにつれ、またユングの著書を読み進めるほどに私は次第に一つの確信に至ることになったのです。
それは、無意識という潜在意識の中にこそ、人の心を動かしている宇宙的な力があり、神的なエネルギーがあり、生命の源泉に繋がっている神性意識が存在しているのだということです。

ユングが自らの体験を通して無意識の心理学を解明し、世に説いたと同じように、私にとっての神秘体験は、ユングを支えた全てをさらに今の時代人にわかりやすく伝えることが出来るはずだという認識を生じさせたのでした。

イエスは言いました。
「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう」
そしてこう言います。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

人が、自分自身の本性である無意識(=原人間=クリストス=キリスト)を通じてのみ、再結合が可能となる、天に引き上げられる、救いが完成されることの本来の意味なのではないかと考えるのです。

密議や異端、神秘思想や異教哲学、心理学という世界から、イエスが言った言葉を読み解いてみると、寓喩の源泉には、違った真実が隠されていると知ることが出来るのです。

道であるイエスを通って歩むことが、自己実現・個性化過程・化学の婚礼
・黄金のチンキ、賢者の石の獲得による救済の実現という目的にたどり着
くことができるのだということなのです。


★無意識の力を認識する

神聖な自己が無意識に存在しています。
そして人は、無意識の神的なエネルギーを解放することで、自分のこころが救済されることを前提に自己実現を目指してゆくのです。

宝瓶宮時代に生きる私たちは、「蘇り」の時代に生きているということをもっと認識しなければなりません。古文書が2000年の時を経て現代に蘇ったこと、宇宙の量子物理学の世界も、素粒子となって蘇りつつあることも、過去の偉大な思想哲学も、私たち現代人に新たな時代への知恵を授ける為に蘇ったのではないでしょうか。
無意識の力を認識することで、精神と心のバランスが正常に保つことができるとすれば、それこそが物質主義的な現代からの救済となるかもしれないのです。

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無意識の力と神秘的キリスト教との関連