映画『彷徨える河』と「試みる者」カラマカテ

映画『彷徨える河』 皆さんは御覧になったでしょうか?

アマゾン先住民族の心髄に触れるような、あるいは魂の奥深くに鳴り響くような、象徴的でノンカラーで静かな素晴らしい作品だと思います。

レンタルも開始されたようですので、今日は映画『彷徨える河』についてご紹介します。

 


予告編動画

 

私が若い頃、カルロス・カスタネダの呪術師「ドン・ファン」シリーズをすべて読み、「シャーマンの言うことは本当に意味がよくわからない!」とブツブツ文句をいいながらも、ドンファンの世界に引きずり込まれていた記憶が蘇りました。
近年ではパウロ・コエーリョのシリーズは全作品読んでいますが「アルケミスト〜夢を旅した少年」にはシャーマニズム的な教えがたくさん書かれていて、そこにはこの映画に登場する年老いたカラマカテのように、老賢者が少年の心と魂の導き手となって登場しています。

 

・象徴的に示す地図という世界観

象徴体系(シンボル・システム)について、ウェールズ大学のD・フォンタナ心理学博士はこう言っています。
「象徴体系とは、実在の有様を象徴的に示した地図に他ならない。つまり、心や感情の世界がどういう趣きで心眼の前に立ち現れるのか。を表したものである」

象徴体系を織りなす名シンボルの意味は、どれも一つ一つ独立したものですが、それだけにとどまらず他のシンボルともつながりを持っています。そして象徴体系によって与えられている精神の地図上で、今自分がどこにいるのかを知りたいと思った人は、ある1つのシンボリックなものに強く惹きつけられていることに気づきます。

ところが象徴体系の中にあるものは、極めて複雑にあるいは一見すると全く事柄同士の関連性がないかのように、何層ものベールで真理が隠されまた覆われています。それらはやっと地図に見つけ出した位置や意味が、あたかも実在しないかのように感じさせたり、やたらと長い道のりが寓話的に描かれていたり、日常言語とはかけ離れた用語を使って、探求者の決意ややる気を試すかのように、わざと晦渋(かいじゅう)なものになっているわけです。

ブラヴァッツキー夫人の創唱した「神智学」を受け継いだルドルフ・シュタイナーは、象徴哲学体系の系譜を受け継いで「人智学」の一派を立てました。その熱心な弟子であったマックス・ハインデルの愛弟子マンリー・P・ホールは「哲学探求協会」を創設し、象徴体系の秘教的な教えや民族の秘密の知識を集積させ、無数の講演を行ない、その著作活動も多岐にわたりました。

彼は「象徴は、古代密儀の言語であり、自然の言語だ」と述べています。
そしてそれらは世界中至るところに散りばめられて存在しています。たとえばエジプトの砂漠に建造されたピラミッドそれ自身に、あるいは大宇宙をみつめ、その季節、循環、星辰の公転とともに大空を観測した出来事を年代記に著し、失われた技術をピラミッドに遺した古代マヤ民族の叡智のなかに紐付けられていて、普遍的なシンボルを学ぶまでは「隠されている」のが象徴体系なのだともその著書で語っています。
真理はこの世に赤裸々な形で来たのではなく、類型(タイプ)とイメージの形でやってきた。他のいかなる方法でも、人は真理を決して受け取れまい。とピリポの福音書にも書かれています。

 

・インディアンやシャーマンと精霊とに観る自然信仰(アニミズム)

ネイティブ・インディアンは、生まれながらに象徴主義者であるといわれています。
インディアンの哲学は「大いなる自然」との緊密な接触から生まれたものです。言葉では説明しがたい「ネイチャー」の摂理や驚異の側面とともに、生と死や再生のシンボルを尊重しています。

彼らの赤子は母の子宮から生まれ落ちた時点で、神々の化身や自然が宿す精霊(トーテム)にお伺いを立てますし、動物界に属するジャングルの掟に従って、生命の道を歩く霊人か否かを創造主に委ねることもあります。

シャーマニズムの世界では、C・G・ユングが示すアーキタイプ(元型)と同様に、原型的な世界の原理を理解し、地上にはすべての形の型(タイプ)が存在すると信じていましたし、死者の幽霊と実際の魂や守護霊の相異を認めています。

中南米の亜熱帯ジャングルで暮らす原住民族は、その歴史や伝説、神話や伝承などの知恵を絵文字や紋章文字、シンボルとして洞窟の壁画や木の皮で作った巻物に書いたり、石碑や偶像、遺跡や大地に描いてきました。彼らはジャングルや大いなる自然に対して、また精霊や他の生き物、植物や大地に対して「敬意を払う」ことを守るものたちです。

映画では、カラマカテ(呪術師)はもう彼しかいない。といいます。
ラストサムライのようです。
なぜか? それはシャーマンは大いなる知恵を持つ者。だと言い伝えられているからです。

大いなる知恵とは、生きて死ぬまですべてのことが天から啓示されていて、その伝承を守り続けて死ぬ人でなくてはならない秘儀を知るものです。

先住民族は、部族、種族がそれぞれ小さな共同体をつくって生活しています。
それぞれの部落や集落には族長や酋長などがおり、自然とジャングルの掟をまもっていますが、皆が賢者やシャーマンであるわけではありません。映画にも出てくるように、幻の聖なる植物・ヤクルナを見つけることができ、どのような植物がジャングルのどこに生えていて、身体のどこに作用するか病を癒すことができるかなどの知識ももっていなければなりません。
何よりもシャーマンは魂が夢で元型に遭遇し、変性意識状態を通過したのち、「精霊(カーピ)」と出会い、大昔ネイティブ・インディアンや同胞が生きていた太古の世界へ辿り着いたものしかシャーマンにはなれないのです。

先住民族が敬意を持って接する自然信仰とは、自然に宿るすべての生命を尊重し、精霊の存在を認め、言語が支配しない神々の言葉や音を夢や日常に認め、ジャングルの只中で真の自分を見出すために物質的な自我を捨てて到達可能な「感覚世界」の道を歩む生き方です。

映画の中でも、ある出来事を通じてそのことが現されています。コンパス事件です。ドイツ人の民俗学者テオが途中訪れた部落で、星の方角を知るのにコンパスが便利だとして皆に説明します。それを欲しくなった部族長はテオのもとからコンパスを奪いました。帰る時にコンパスがないことでテオが部族を責めますが、そのときテオは「彼らの生活は、風や星の位置に基づいて営まれている。もしコンパスに頼るようになれば、その知恵は消えてしまう」と考えました。
若きカラマカテはそのことを「なぜ学びを禁じるのか」と反論します。現代文明は便利な道具をたくさんもっていますが、テオの言う通り感覚世界への共感力は乏しくなり、その知恵は遠い世界にすむ天のものになってしまいました。自然と人間が共存できる道はとても狭き門なのかもしれません。

 

・古代マヤの先住民族のもつ宇宙観

古代マヤの先住民族は、ジャングルで生きる知恵と象徴の世界を独自に育んでいました。
目に見える地上世界を支配・監督しているのは「地上7神」の神々。
目に見えない「天の世界」は「天界13神・オシュラーフン」が、もう1つの目に見えない「冥界」を支配・監督しているのは「冥界9神・ボロンティク」です。

北極星の番人として商人や船乗りを導く神は「シャマン・エク」。
金星の運行を正確に観測して計算していたマヤ人にとって、金星は「偉大な星」「ノフ・エク」で、神話的な視点からとっても重要な星であり、戦争にも関係あると信じられていました。

天の川の帯状の中にみえる、暗い部分が「冥界・ボロンティク」あるいは「地下世界・シバルバー」への入り口だと考えられていたので、真夜中に天の川が上空に広がると、人々は夜の王に入り口に引きずり込まれないように注意しなければなりませんでした。この天の川を「ワカフ・チャン」上昇する空と呼び、シバルバーへと上昇していく、あるいは地上から冥界へと落ちていく王の姿を描いた世界樹が、パレンケで発見されたパカル1世の石棺の蓋には描かれていると信じられています。

古代マヤ都市のなかでも重要なのがティカルだといわれ、AD250年頃から神殿造りが始まったといわれています。ジャガー神殿や、ツイン・ピラミッドなど建造物の数は1万以上ともいわれていて、その宮殿は「中央のアクロポリス」と呼ばれ、傾斜をつけた道をつくって、100万ガロンもの水を貯める貯水施設を作っていたそうです。4万人もの人々の需要を満たすものだったとあります。

私がマヤ民族の伝承や暦の文化、神話にこだわるのは、古代マヤ民族が大切な教えを未来に託して遺してくれたからです。
彼らの知恵や象徴的な世界観は、現代人の想像をはるかに超えています。

古代マヤのシャーマンやデイキーパーの秘儀や奥義を少しは学べたかと10年を振り返ってみますが、実はまだ入り口に辿り着いただけだということに気づき、絶句いたします。
超越した世界の真理に到達するのは、深淵なるアマゾン河とジャングルを彷徨うほど大変な道のりを歩むことなのだと実感します。

 

・超越と恍惚へのプロセス

映画では、過去と現在を生きるカラマカテがパラレルワールドのようにして描写されています。
若き日のカラマカテはドイツ人の民俗学者テオを癒すため、幻の聖なる植物ヤクルナを求めて旅をしますが、年老いたカラマカテは今度は若き植物学者エヴァンとともに、再びヤクルナを求めてアマゾンにカヌーを漕ぎだします。
カラマカテは「夢に従うこと」を大切な教えとして一貫して伝えます。
何が見えるか?世界は実に広くて巨大なのに、人間は目の前にある近くしか見ていないし、世界の声に耳も傾けない。それでは夢に従えるはずがない。先祖の歌を耳でなく心で聴きなさい。といいます。

ことばを超越した宇宙のリズムや神々の言語、音楽を体感することは、内的な経験であるという認識はとても大切です。インドの象徴哲学では、人間の身体は、感覚をそなえた経験の世界をともなうもろもろの機能の集合体であり、比喩的にいうと宇宙全体が肉体の中に含まれていて、ある特別な閃きや興奮のなかでのみ、心的反応が目覚めさせられ、悟りの状態・恍惚へと立ち戻る変容のプロセスの原料なのだとあります(タントラの哲学)。

伝承では人間の身体は超越者・至高の存在ブラフマンの「真理の土壌」から、植物のように生長するものとして描かれてきています。タントラに至る概念は、男女両者が分離する以前の状態を体験するのだといい、それは他に比べるもののないほどに歓喜であり、創成以前の創成を超越した存在の歓喜へと到達すると伝えられています。このことは男女の愛の営みのみならず、神秘体験にも共通する交霊術のプロセスです。

マヤ・グアテマラ人の聖なる書物とよばれる「ポポル・ヴフ」神話は、古代の記録によると「影の国にある人間存在と、人間がどのようにして光と生命をみたかについての話」と呼ばれていて、シバルバー(冥界)での7つの試練について描かれていますが、これは超越・恍惚へ至るプロセスのアレゴリーです。

夢には記憶の断片が組み合わさって見るような「普通の夢」と、象徴や寓意がまざまざと立現れるような「大きな夢」とがあるとユングは述べています。
大きな夢はまるで白昼夢のように鮮明で、当の本人にわかるようなハッキリとしたシンボリックな原型をたどる夢です。
アイオーン的な視点からみるならば、不可侵性をあくまでも頑固に守りぬこうとする自然保護区に住んでいるアニマ・アニムスが、超越力とともに無意識から立ち昇ると、自我に与える影響がとてつもなく強大であることの現れの1つが「大きな夢」なのだともいえるでしょう。

また一方で幻視体験や宗教体験のように、変性意識状態に現実世界が飲み込まれてしまうかのような神秘体験も存在しています。古代シャーマンの世界では、象徴的世界を体験するために夢見が必要で、イニシエーション(通過儀礼)が必要だったことを考えると、超越・恍惚へのプロセスを歩むこと=カラマカテが忘れてしまっていた夢の記憶を蘇らせることと同じことなのではないでしょうか。

・太古の世界体験を試みる者

「カラマカテ」とは現地の言葉で「試みる者」を意味しているそうです。
また映画のタイトルとなった『彷徨える河』の原題はEmbrace of the Serpent「蛇の抱擁」という意味で、このタイトルが何を示すかについて、シーロ・ゲーラ監督が「cineaste」(ウェブサイトhttp://www.cineaste.com/spring2016/embrace-of-the-serpent-ciro-guerra/)のインタビューに答えているので一部抜粋してみます。(Indie Tokyo http://indietokyo.com/?p=4794)

ゲーラ監督:アマゾンの神話では、銀河から降りてきた地球外生命体が巨大なアナコンダに乗って地上に旅してきたとされている。彼らは海に落ちて、そこからアマゾンへとやってきた。アマゾンで暮らしていた先住民族の部族を訪れ、乗組員が後に残った。彼らは地上で如何に暮らすか、どのように植物を育て、魚を捕り、狩りをするかを部族に伝えた。その後、乗組員たちは再び結集して銀河へと戻っていった。後に残されたアナコンダは河となり、そのしわくちゃの表皮は滝となった。
彼らはまた、幾つかの贈り物を残していった。聖なる植物コカやタバコ、そしてヤヘなどだ。地上で暮らすことについて質問や疑問が生じたとき、こうした植物を使って彼らと会話することができるのだ。ヤヘを使うと、銀河から再び蛇が降りてきて、私たちを抱擁する。その抱擁によって、私たちは遠い場所へと連れて行かれるのだ。それは生命がいまだ誕生していない始原の地であり、世界を異なった方法で見ることの出来る場所である。『彷徨える河』を見る観客にとって、この映画が同じビジョンを与えるものであることを私は願っています。(大寺眞輔訳)

若い時のカラマカテも年老いたカラマカテも、同じように白人に「荷物を捨てろ」といいます。
白人の学者にとってカヌーに積んだ重たい荷物は「知識」であって「物」ではない大切なものなので、捨ててしまうことは敗北になると考えています。しかしカラマカテは荷物はやはり「物」であって、物があれば正気を失い死に至るだけだから捨ててしまえと言い続けます。

この「荷物」を象徴シンボルとして捉えることで世界体験を共有できる視点を獲得できるかもしれません。この「荷物」を「肉体・自我」のシンボルとしてみましょう。
肉体は精霊や魂の乗り物であって、自我や怖れをもつ肉体的な意識のままでは夢を生きることができるようになることを意味していません。肉体意識が浄化され、削ぎ落とされ、カヌーから大河に投げ捨ててしまえば、正気を取り戻すことができる。と呪術師カラマカテは考えているのではないでしょうか。

死は決して怖いものではありません。
死を恐れる心が恐怖を生み出すのです。

映画のラストシーンでは、ヤクルナを譲ってくれないカラマカテを白人エヴァンは殺そうとします。そこでカラマカテは「殺しなさい。私の役目は死ぬことだ」といいます。
殺そうとした過ちを悔いるエヴァンに向かって、カラマカテは「私も同じだ。既に君を殺していた。それが昨日なのか百年前なのか大昔か・・しかし君は今ここに帰ってきた」と受け止めます。そして世界体験を伝えるべきなのは、コイワノ族の同胞ではなくエヴァンであるとして、ヤクルナをもちいてメドラのカーピ大ヘビに出会うよう、イニシエーションを授けます。

こうして植物学者エヴァンは荷物を河に捨て(蓄音機は残しましたがそのことも歌を残すことの象徴かもしれませんが)、肉体と自我意識を捨て、大蛇に会うため太古の世界へ向けて魂回帰の旅の途につきます。


カラマカテ「試みる者」はいいます。
「大ヘビが現れてその大きさに驚いても、恐れずに抱擁してもらうのだよ」「受け入れれば太古の世界へと辿り着く。まだ命の源さえも生まれていない太古の世界に。」

最後に私自身の魂が感動した言葉を映画から書き写します。
「望まれた以上に与えよ。歌を伝えよ。目にしたこと、感じたことを全て伝えよ。完全なる人になりなさい。・・・これで君はコイワノ族だ」カラマカテ

 

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