無意識の世界とは何?

無意識の世界について

無意識の世界とは、心理学だけの言葉ではない誰にも備わっている、心を動かす力の源泉的要素に満ちている世界です。

私たちは、意識する自分だけが
「自分の心や考え」だと信じています。
けれど本当は、意識出来ないところにも
あなたのココロは存在しているのです。
それを心理学では、「無意識」という深層心理を表す言葉で
表現しています。
あなたが何かを無意識に感じ取るとき…
何かを無意識の瞬間に気づくとき…
あなたの無意識領域は活性化されています。


まずは、無意識というむずかしい言葉から少し離れてみましょう。
そして、大きく深呼吸します。ファ〜〜フゥ〜〜
 
さて、心の中を空っぽに近い状態にしてから以下の文を
思考せずにただ読んでください。
 

★★〜〜
 
我々が過去の範例の数々に学びうる最大のものは、
「心は、それの意識への同化には極めて大きな危険を伴うところの諸内容を隠し持っている。もしくはそういう種類のものの影響下にある」という事実である。
古の錬金術師たちは、彼らの秘密を物質に投影した。
ファウストの例もツァラトゥーストラの例も、我々にこの秘密を自分の内に完全に同化してみたいという気を起こさせなかった。
 
 となると、おそらく残された道はただひとつ、自分が心そのものでありたいと言い張る意識の思い上がった要求をはねつけて、我々の現在の理解手段を以ってしては、到底把握し得ないようなある現実が心に備わっていることを認める以外に手はないであろう。
 
私が無知蒙昧(むちもうまい)の徒と呼ぶのは、自分の無知を告白する人のことではなく、その意識が未だに自分の無知を知るところまでも達していないような人のことである。
 
 すなわち私の考えによれば、物質から哲学者の黄金(きん)、あるいは万能薬、あるいは奇蹟の石(ラピス)を製造できはしないかという錬金術の期待は、確かに一面においては投影によって惹き起された錯覚であるが、しかし他面では、無意識の心理学において大きな意味を附与されている心的諸事実に一致する。
 つまり錬金術師たちは、その諸文献や諸象徴が証ししているように、個体化過程を化学変化過程に投影したのである。
 
 ところで、「個体化」という学術用語は、決してくまなく知り尽くされ、解明し尽くされた事実を指しているわけではない。
 この語は、無意識中における求心的な人格形成過程という、いまだに非常に曖昧で、研究を要する領域を表しているにすぎない。
 それは、そのヌミノース的性格のゆえに昔から象徴形成の最も重要な原動力をなしてきた生の過程である。この過程は、人間の知的理解力ではこの先どれほど時間をかけて努力してみてもあるいは解きえないのではないかと思われるような、様々な謎を提示する。
 
 その意味においてこの過程は、神秘的と呼んでも差し支えない。人間の知的理解力が究極的に見てその謎を解くのに適した手段であるかどうか、つまりこれは甚だ(はなはだ)疑わしいのである。
 錬金術がみずからを「術 ars, Kunst」と呼んだのは無意味ではなかった。
自分たちが関与している過程は、本当のところは体験によってしか把握出来ないような、そして知力はただ名前を与えることしか出来ないような、そういう形成過程なのだという感情、これが錬金術師たちをして彼らの仕事を『術』と呼ばしめたものであった。
 
 が、この感情は正鵠(せいこく)を得ていたと言わなくてはならない。
錬金術師たちみずからが、「書物を引き裂くべし、心の引き裂かれざるためなり」と言っている。尤も(もっとも)彼らはそう言う一方で書物の研究を強く勧めている。しかしおそらく理解への扉を開くものはむしろ体験であると思われる。
 
★〜〜〜by C.G.jung〜〜〜★

この文章だけを読んだのでは、いったい何を言いたいのかよくわかりませんよね。
しかも何も思考せず、

【ただ】読んだだけなのですから…!
 
でも、これを読んだだけで、人間の無意識は本能的に理解できることがあるのです。
 
人は自分というものがいったい何なのだろう?とか、自分は何をしたいのだろう?
とか単純に疑問に思うことってありますよね。 
それは、自然に素直に生きている限り、当たり前の疑問です。
人は自分の意識する考えが全ての生きる基準である。と疑うことなく思い込んでいるからです。 
 
でも、それは真実ではありません。 
 
無意識という深くて大きな根っこが無い限り、自分という人間の花は咲くことが出来ないからです。 
無意識を自覚している人も自覚していない人もいるでしょう。
自覚しないで花を咲かせることのできる人は、
きっと無意識の世界のヌミノース的原像がとても強く、しっかりしているのかもしれません。
自覚している方は、きっと一生懸命に努力して自分という人間の使命を見つけるため、
また使命を果たすため、がんばっているに違いありません。
 
 ユングが述べている無意識の心理学についての本来の認識は、
理解しようとするのではなく、感じることから始まるのだと私は信じるのです。
 
ですから、私がアドバイスするのは
【無意識ということばの概念を、むずかしく捉えないこと】
【意識しない自然なところで、無意識は隠れたまま意識の様子をうかがっていることを認めること】
として無意識を受け止めるという、とっても大切なことなのです。
 
「無意識」をむずかしい心理学的用語の中だけに閉じ込めてしまうのは、
人類にとって愚かしいことです。
だから私は『無意識の解放』を宣言します。
 
イエス・キリストを信じる、仏陀を信じる、釈迦を信じる、ということは、
宗教だから信じるわけでもなく、教義を信じるわけでもないのと同じです。 

真実は簡単なことばでも十分に通じます。 

そして「無意識」と名づけられているのことばの意味は、「意識が無い」ということではありません。
根っこは土の中に埋まっています。だから目には見えないですよね。(引っこ抜けば別ですけど…)
どちらかといったら、無意識というより、「隠れていて見えない意識」
というほうが正しい意味に近いかもしれません。
 
無意識はことばの中には無いのです。
どちらかといったら、絵や象徴、音楽や第六感の中に見つけやすいかもしれません。
でも、無意識が意識化されるときは、言葉も関わってくるようですけれど…!
 
ちなみに無意識の中に想像されたものとして私が描いた絵は
下にある「キリストの子錬金」という題のものです。

つぼの中から花が咲いていて、
茎の途中には小さなキリストが串刺しになって横たわっているものです。
それが子錬金だというのです♪?!
 
無意識は怖がらずにそっと向き合ってみると結構優しく教えてくれると思いますよ。
 
あなたを無意識と偉人との対話の世界へとお連れしましょう。
キリストの子錬金