無意識の力

無意識の世界を認識することは、畑に埋められた宝物を掘り当てるようであり、又尽きることの無い油の源泉を手に入れたようです。

無意識が感動する! 無意識の感動!
 私たちの日常生活、ちょっとしたこと又大きな出来事が起こると、意識はその事に対して変化を受け入れますよね。 それは悲しみや喜びかもしれないし、嬉しさや苦しさかもしれません。 
また人は涙を流したり、心臓がドキドキしたり、落ち着かなくなったりします。意識が動揺している証拠ですね。
 それでは、私たちの無意識は同じように感動したり動揺したりするのでしょうか?!

答えはYESです。
 
 人は自分のわからない領域のことでも、共鳴する心は共通なので、無意識はそれを察知したり認識したりして、そのことに感動も動揺もするのが普通なのです。
たとえば、人の悲しみには人類共通のものがあります。愛する家族が死んだとき、大切にしていたものを失ったとき、生きる目的を奪われたとき… 自分のことでなくても、それは共通の悲しみとして認識されるので、無意識に涙を流すことがあります。 また、感動の力も同じように、その人ががんばっていることで、苦難の乗り越えを共有しますから、同化した無意識は、そのことを感動として認識して心に信号を送り込みます。

 意識の世界を無意識が捉えると、それは意識の世界と共通の要素をたくさん持ち合わせていますから、感動したり動揺したりするのも同じような影響力を持ってその人に現われるのです。 しかし…

 
無意識の世界から意識の世界を見た場合は、まったく別なのです。
無意識の領域で喜びとすることは、意識の領域では悲しみだったり、意識の世界では良いとされることが、無意識の世界では偽善だったりするからです。
そして、無意識を認識しているいないに関わらず、無意識自体は個性を持っていますから、無意識が共鳴するような真実や、事柄に対面したときは意識にわからないままに感動して震えることがあるのです!
 

無意識っていつもはどうなっている? 無意識の力

 私たちが毎日を過ごすとき、普段は何事かに集中したり、身体や頭を使って目的を果たしたり、また休めたりしています。 仕事をするときも、家族や友人と会話をしたりテレビを見たりと何をするにも、自分の意思でその事のほうに気を向けることが出来ます。 リラックスしているときだって、気を緩めることはあっても、自分の意識はちゃんと持っていますよね。
 
その時、無意識はどうなっているのでしょうか―?
 
 無意識は普段、意識が前面に出ているときは、背後にそっと隠れているのです。 それはどのようにかと言うと、例えば”ゴッドファーザー”のように、”アラブの大富豪”のように、または”大企業の社長”のように、とても大きな存在として必ずあるのに、いつもは先立って前に出てくることはない―何事もないときは、会うことさえ無い―そのような存在として隠れているのです。
 一兵隊である新人社員ならば、何千人もの社員のトップに立つ社長と直接会って話しをしたり、相談したりすることなどほとんどないでしょう。 けれどもその人のことを社長が見ていないかと言えば、そうではなく様々な企業構造の中で、目を配る体制がきちんと整えられているものなのです。
 けれど、一度その人が大失敗や間違いを犯し、大変なことになりそうであれば、社長自らが上から降りてきて、当事者と話をすることもあるかもしれませんよね(^_^;)
 
「無意識」とは、そのような存在を象徴する概念のことなのです。そして、背後に隠れたまま自分の「意識」を支えているのです。
 
 自分がやりたい事をして、笑ったり泣いたり、楽しく人生を過ごせているときは、無意識は前に出てくる必要がないのです。
 しかし、人間の心は複雑で、どんなに幸せなときでも、様々なストレスや不安、困難に遭遇してそれらの影響を受けてしまいます。人間関係、自分の弱さ、病や環境への不満等々、その正体をあげたらきりが無いほどに意識を蝕む要素は少なくはないのです。
 さらにその人の一生を10秒で見ることが出来るほどに高く、大きな視点からその人を見たとき、幸せだと思われているその状況が、実はとんでもなく危険だったり、苦しむ前のひとときだったり、不幸への道程だったりする可能性があることを、無意識は察することができるのです!
 
 無意識は心臓や胃が自分の存在を意識に向かって主張しないのと同じで、自らの力や存在を意識に対して主張しません。 宇宙から地球を見るように、心と命の全てを察知して、意識の背後で支え続けることが無意識の大切な無意識の役割なのです。
(前面に現われてくることで引き起こされる病―ヒステリー症状、自己分裂、二重人格など―についての見解はここでは触れません)
 
 先ほど述べたように、もしも意識がとんでもない方向へ向かって突っ走っているとしたら、無意識はどうするのでしょうか?
 
無意識はその人本来の使命を知っています。

だから、その人自身が本来の使命に立ち返ることができるように、またその人の前に立ちはだかる高い壁を乗り越えることが出来るようにと、無意識は仕事を開始します。 しかし、それは『意識が考えられないようなやり方』で行われるのです。
 たとえば、「火事場の馬鹿力」とか、「死へ旅立つ前の枕元への挨拶」とか、「自殺寸前で出会った優しさ」とか、「奇蹟としか思えない救出」…等々。 それらはあたかも偶然かのように、またオカルティズムのように、不思議や神秘とも言える驚くべき方法や手段で、私たちを救いだし、暗闇に光をあててくれることがあるのです。
 

 さて、私たちの住む意識の世界は、決して美しいものばかりではありません。 醜いものも、惨いものも存在しています。 生命の悪と善が交じり合い、戦いさえも生み出してしまう渾沌の世界です。
 けれど、私たち人間の目では見ることも触ることも出来ない無意識の世界は、意識とは全く違う別の世界を象っているのです。 その無意識の世界を説明するためには、普通私たち人間が使う「言葉」だけでは全然足りないのです。
 地球上にあるありとあらゆるもの―象徴図や絵画、音や数など―を使って、何とか似たような表現ができるように努力するしか、この意識の世界では手段が見つからないのです。
 
 ピタゴラスは数に、プラトンは宇宙に、アインシュタインは物理学に、モーツァルトは音楽に、ゲーテは詩に、ユングは心理学によって、何とか別の世界を表現しようとしたのだと思うのです。 さらに表現することは、それだけに留まらず、無意識自体が知識の泉となり、次から次へと湧き溢れ、その源の世界にあるものを、私たち人間の意識の領域へと送り込んでくれるのです。
 
無意識と意識の関係は、アダムとイブのようであり、陰と陽であり、白と黒であり、成婚だと言われるのは、まさにそのような理由によるものなのです。
 
 無意識の世界が実在することを認識し、私たちの意識が無意識と手を取り合うことを良し!とするならば、それによって無意識は山をも動かす力となり、私たちの人生を豊かにしてくれることでしょう。

無意識という言葉の力 無意識の力

この世界には、何千種類もの「言語」がありますね。
英語、ドイツ語、中国語、ヘブライ語…

そして日本語だけでも、同じ「言葉」なのに違った意味を持つことばはたくさんあります。 さらに漢字まで含めて突き詰めていくと、大変なことになってしまうほどに、言葉の意味は多種多様に存在しています。
私は「ことば選び」のための「実用事典」というものをよく使いますが、たとえば「きく」というたった二つの文字に、どれだけたくさんの類語があるか、異なる意味を持つ言葉として存在しているかを知ると本当に驚き、また感動します。

「聞く」や「効く」が其々の漢字を伴って違った意味を持つ語を形成します。
「視聴、幻聴、他聞、早耳、即効、有効…」
そのようにして、「きく」という言葉を知っていたとしても「自分が知らない」または「自分が気づかない」「自分の知識外の」意味を含む言葉が何十も存在しています。
自分の表現したい気持ちを忠実に正確に表現しようと思っても、適切な言葉が思いつかなかったり、表現の仕方がわからなくて間違った言葉を選択してしまったりする経験は誰しもが持っています。

さて、そのようなことからわかるように、「無意識」という言葉を自分の知っている範囲の単なる一つか二つの意味でのみ解釈し、認識してしまうと、それ以上の理解は深まらないことを意味します。

「無意識」という言葉を一般的に私たちが考えたり、使用したりするとき、
「無意識にやってしまう」「無意識に選んでいる」「無意識にしてるんだからしょうがない」などのように、あたかも自分の考えとはまったく違うところで思考したり、弁護や弁解したりするようにして使うことが多いようです。

 そのような意味として使用することは、もちろん間違ってはいません。先ほどの「きく」という言葉に多様の語彙があるのと同じ事です。
そしてこの「無意識」には、もっと別の意味があるのだということも、先の「きく」と同様認識出来ると思います。

「無意識」という言葉には、それらとはまったく違う解釈があるということを世に広め、説明することで、現代心理学や人の心の深層を解明するために、どれほど貢献的要素を提供してくれたのかは測り知ることが出来ないほどだと思います。

 C・G・ユング博士は、心という観点を中心として多くの象徴を紐解いていくとき、そこには意識とは似ても似つかないだけでなく、自分の無意識ですら理解することのないような、普遍的・集合的無意識という世界にユングは出会うこととなったのです。
そして、その「集合的無意識」にあったものは、何百何千年という時の流れの中でもまったくといっていいほど変化を示さず、二千年前の真理もなお色あせることなく、現在過去未来のどの地点においても同一であり続けてきた、基本的な心的諸事実を見いだしたことをその著書の中で述べているのです。


無意識がどれだけ、意識に貢献し意識を支えているか、無意識がどれだけたくさんの要素を送り込もうとしているか、私たちが知らないだけだと思います。

また、この「集合的無意識」という何だか不思議で理解し難いような心の奥深くのことをヘーリッヒ・ノイマンという学者は、次のように説明しています。

「ユングは集合的無意識の構成要素を元型ないし原イメージと名づけた。これらは、本能がイメージの形をとったものである。何故なら無意識はイメージの形においても意識に示され、夢の中でもそうであるが、イメージとして現れて、意識の反応や摂取を促すからである。」

「意識の起源史」上 P17
ヘーリッヒ・ノイマン著 林道義訳

得体の知れない「集合的無意識」というものを構成している要素を
「本能がイメージの形をとったもの」
と表現しているのは、何とも面白い表現だと思います。
また、無意識と自分との関係については

「自我の無意識に対する関係、および個人的なものの超個人的なものに対する関係は、個人の運命を決定するのみならず、人類の運命をも決定する。この対決の舞台はしかし意識である。」(P29)

ここで彼が言っているのは「その人の運命を決定する」ほどに影響力を持つ「無意識」は「意識」という舞台で「対決」しているのだというのです。

これらは「無意識」の意味することのほんの一部に過ぎません。
無意識という言葉には、私たちが知っている以上にたくさんの隠れた意味があり、力が存在しているのです。
つまり、「無意識」が意味するものは、本当にたくさんあるということなのです。

無意識という言葉の意味を、たとえ全て理解できなくとも、私たちは「無意識」についてもっと理解を深めてみようとする姿勢は大切なのではないでしょうか。 何故ならその「無意識」こそが自分の意識という舞台にともに立ち上がり、自分の人生をよりよいものへと導くための一つの大切な要素だからに他ならないからなのです。



目次