あなたは聖書を読んだことがありますか?

聖書を通して・・・

キリスト教の正典である『聖書』には、神の奥義と教え、そして神と人間の関係や神話など
数え切れないほどのお話しが書かれています。
キリスト教徒は新訳聖書も読みますし、ユダヤ教徒は旧約聖書を信仰します。
 
でも、私はキリスト教だけが神とつながる唯一の宗教とは思いません。
仏教徒もヒンズー教徒も回教徒もユダヤ教徒も、みんな正しいのです。
 
神はみな同じです。たとえ何百もの違った名前を持っているとしても、
神を何と呼ぶかの違いだけであって、それは私たち人間側が決めているだけのことです。
 
そして、人は様々な形や宗教を通して、神とつながることが出来るのです。
ここでは、聖書を通して神の奥義を紹介したいと思います。
ユング博士は、無意識の心理学を形成する過程を研究するにあたって、自伝の中で次のように述べました。
 
『私は、分析心理学がはなはだ珍しい方法で錬金術に符号することを見出した。
錬金術師の経験は、ある意味では私の経験であり、彼らの世界は私の世界であった。
錬金術との対比の可能性と、グノーシスにまでさかのぼる不断の知識の鎖は
私の心理学に骨子を与えた』
 
聖書を取り囲んで、グノーシス思想の歴史から錬金術へ、そして無意識の心理学へと連続性が存在していることが解った。 というのです。
 
無意識の根源は、唯一の集合的無意識だと思います。だから、これを読まれている方の無意識と私の無意識は、同じところから派生しているのです。聖書を通ってたどる道はきっとどこかでつながっているはずですから。
いっしょに歩いてゆきましょう。
1      信仰の光
私たち人間は困ったとき、苦しい時、願い事があるとき、助けて欲しいとき、神様に向かいます。 人間の力ではどうすることも出来ないことは、神なら出来るかもしれないという希望を持つからです。 神さまなら、きっと助けてくれる。きっと救って下さる。きっと願いを聞いて下さる… そう心に思うこと―それが「信仰」です。 どの宗教でも共通している人側の姿勢です。
 
 信仰はとても大切な力です。信仰がある人と無い人では、生き方そのものに大きく左右していきます。信仰がある人は、少々の苦難や困難は信仰の力で乗り越えていきますが、信仰の無い人は、人間の力でどうにもならない出来事や試練にぶつかったとき、どうやって乗り越えるのか、どのように自分がそこから抜け出したり対処したりすればいいのかがわかりません。 では、この「信仰の力」・・どのようにして自分のものに出来るのでしょうか?
 
 聖書では、心の正しい人は信仰によって生きる。(ハバクク2:4)と書かれています。 アブラハムは神の御前で敬虔な者でした。そして彼は神をただ純粋に信じました。それが彼の義とみなされたと書いてあります。
 イエス・キリストも又神の子として、神の御心を行うものとしてこの世に遣わされました。聖書はこのイエスを「まことの光」と呼んでいます。 ヨハネの福音書では、イエスの光について多くの福音を述べ伝えています。イエス自身も「わたしは世の光です」と語っています。
 
 さて、ここで今度は聖書から少しはなれて、錬金術の福音と真理から「信仰」を見てみましょう。 信仰の光について、以下のような文面がユング博士によって記述されています。 
 
「・・錬金術師たちが自分たちの術を、どれほど神の啓示に対比させて考えていたか、少なくとも神の啓示を根本的に補完するものと見ていたかを物語っている。…信仰の光が照らすのは、あるいは照らすべきであるものは、文明化された領域の外、すなわち闇の領域である。けれども、その光が闇を把握し照らし出さないならば、だれかが闇の中で苦闘し、何らかのオプスに取り組んで、その結果生ずる光が、たとい闇を把握しえない光であるとしても、「神の尊厳の反射光」を捉えるべく努めなくてはならない。闇の中で闇を把捉するような何らかの光が輝きはじめるならば、闇は消滅する。その光が、闇の論理では解明できないような光であるとき、つまり『闇が把捉したことのない光』だけが、闇を照らし出すことができるのである。・・」
 
ここに書かれている事柄は、一見聖書の中で述べ伝えられている真理の光とは違うことのように感じますね。けれど、実はこの文章こそが、信仰の光の力を語っている真実の言葉なのではないかと考えるのです。
 
 私たちは皆、自分の考えや生き方を良しとして心に受け入れて生きています。聴く耳のある人は、自分が間違ったかもしれないときは人の意見を取り入れて自己をよりよく改善したり、平和的に理解していくよう努めますね。けれど、聴く耳を持たないひとにとって信じることのできるのは、自分と自分を受け入れてくれる人の意見だけです。それは上で述べている暗闇のことです。 光が及ばないということこそ、闇の闇である所以ですよね! 信仰は理屈でも理論でも、教義でもありません。心から純粋に信じる行為です。そしてその信じるという行為は力となり、自分の知識や概念や理解では不可能な(闇が把捉したことのない)方法の光で、闇を照らし出すことが出来るのです。
 
ユングは最後にこう述べています。
『それゆえ、闇は、闇の予期しない、意図しない、把捉しえないものによってしか、解明されない。』と。
 
 私たち人間は、ちっぽけな存在なのです。どんなにがんばっても一人は一人の力でしかないし、偉い学者でも、博士でも、天才でも、神ではありません。 でも、一つ真実があります。それらの歴史に名を馳せた偉人たちは、皆自分の内に信念があったはずです。信念とは、自分が信じて念ずることです。まさに闇の論理では解明できないような光を求めて、それを信じて努力したことです。それが力となってその人を偉人にしたのだと思います。だからこそ、信仰は光であり、光は力であるのではないでしょうか。
更新日時:
2006/06/15
2      「ユダの福音書」発見より
人類の歴史を揺るがせるほどに驚く古文書が発掘され、解読されつつあります。
少し長くなりますが、追いかけてみたいと思います。
 
新たに発見されたパピルス文書『ユダの福音書』に描かれていたユダ像は、従来の記述とはまるで違っていた。ユダこそが英雄であり、他の弟子たちと違ってキリストの教えを正しく理解していた…
 20世紀に入り、グノーシス派の文書であると言われた「トマス福音書」「ピリポ福音書」「真理の福音」「ヨハネのアポクリュフォン」などがナグハマディ文書として発見されたことに続き、ユダの福音書が発見されたと言うことは、まさに奇跡という表現が相応しいのではないだろうか。 
そこには、遥か遠い昔、キリスト教グノーシス派と正統派教会との間に繰り広げられていた闘争のありさまが、はっきりと刻まれていたそうである。 真実の救いが永遠の眠りから目覚めたと言っても過言ではないだろう。
 この発見は、私にとって描いていた幻想を立証するに値する素晴らしい事実である。
 
 当時の正統派キリスト教徒は、イエスの教えを報じる多くのグループの一つに過ぎなかった。エッセネ派を含む多彩な分派グループの多くはグノーシス派であったと推察されている。
その頃のキリスト教は、一貫性を持った統一された教義を暗中模索していたようである。そこで司教であったエレイナイオスが『異端反駁』の執筆をし、グノーシス派を異端と断じて目の敵にしたのである。権威を用いて真っ向から対立していた思想を消し去ろうとしたのである。そして、統一を図るために、現在の四福音書を含む文書のみを聖書の正典として位置づけ、他の数多くのキリスト教文書は闘争ゆえに、次々と破棄され、失われていったのである。キリスト教司教たちによって、完全に支配されたキリスト教国では、異端としての書物を持つことは犯罪行為とされた。さらに、正統派は教会の外に「救済はない」と宣言したのである。グノーシス派の教徒らは、カトリックと呼ばれる多数の目から隠れるため、またイエスに関する秘密の伝承を破壊から救うため、荒野の洞窟や土中に禁書をしたため、大地に望みを託したのであった。
正統派の主張:
「神の子イエス・キリストだけが、人間であると同時に神でもある」
「教会の外には真の救済はない」
「人間を神から区別するものは、本質的相違の他に、人間の罪であるという伝統的ユダヤの教えに従う」
「肉体の復活を否定する者は異端者である」
グノーシス派主張:
「普通の人間も神と直接交わることができる」
「罪ではなく、無知が人を苦悩に巻き込む」
「人間の魂の内部で神性の火花が散り、神との結びつきを取り戻す。この覚醒の中にこそ、救いが存在する。覚醒のためには師の導きが必要であり、それがキリストの役割であり、キリストの教えを完全に理解した者は、キリストその人と同様の神性を持ち得る」
 
 
 教義を重んじる正統派の聖職者たちを「偽りの祭司」と准えてイエスの真の姿を理解するように迫ったことなど『ユダの福音書』には明らかにされているようである。
 私たちがキリスト教と呼んでいるもの、伝統と確認しているものが、実際には多数の資料の中から選択された、ごくわずかな特定の資料に基づいていたものであったという驚くべき真実が明らかになりつつある。 いったい誰が、何の理由でこれらを選択し、他の文書を異端として追放したか? 基準になったものは、キリスト教の教義を統一するため、制度化された宗教としての発展に反するような意味合いを持つ思想は、「異端」であり、発展を暗に支持するような思想であれば、「正統」として認められたというのである。 恐るべし宗教のからくりと言わざる得ない…。
 
グノーシス派の主張する奥義は、自己の最も深いレベルで認識することは、同時に神を認識することだとしており、次の問題の認識に達した人のことであるとしている。
* われわれは何者であったか。また何になったのか。
* われわれはどこにいたのか。どこへ行こうとしているのか。
* われわれは何から解き放たれているのか。
* 誕生とは何か、また再生とは何か。
 
イエスの真実の教えを理解するものは、イエスの指示に従ってその秘教を秘密にしたのである。霊的に円熟していることを立証した特定の者、「グノーシス」−隠された知識−の伝授にふさわしい者にのみ秘密に教えられたのである。 グノーシス派の教師、テオドトスはこう述べていた。
「各人は、その人自身の仕方で主を認め、その仕方は同様ではない」
このグノーシス(覚知)に達したものは誰でも、「解放」と呼ばれる秘密の典礼を受けることができるようである。
 
 イエスは弟子たちに「私に合わせてアーメンを答唱しなさい」と指示し、神秘的な讃美の歌を歌い始めた。
「踊る者、宇宙に属す」・・・アーメン
「踊らざる者、生じ来ることを悟らず」・・・アーメン
「山が踊りに加わり、汝自身を見いだすべし、語る我の只中に。
踊る汝、わがこと悟らん、げに汝のものなるゆえに、我蒙らんとする<人>のこの苦しみは。
げに汝の苦しみ、汝悟り得ざるべし、我御父より<言葉(ロゴス)>として
汝のもとへ遣わされてあらざれば。苦しむことを学ぶべし、
されば苦しむことあたわざらん」・・・アーメン
ヨハネのアポクリュフォンからの引用である。
 
 
これらの闘争に巻き込まれず、キリストを信じるがゆえに別の道を切り開き、真実の伝承を後世に伝えるために働いたものが数知れぬほどいたということを知ることは慰められることである。
1.トマス・アクイナスの『聖なる教』
 アリストテレスは理性にもとずく哲学者である。聖書に記されていることは、神から啓示された超理性的真理であり、我々はこれを信仰を持って受け入れなければならない。理性の立場においてはアリストテレスに従い、魂の普遍的単一性と世界の永遠性とを「真理」として承認する。それにもかかわらず、キリスト者である限りにおいては、聖書に述べられていることがらを「真理」として承認する。「理性の真理」と「信仰の真理」という2つの異なる真理の体系を認め、両者は立場が異なるのだから、たとえ矛盾しても差し支えない。 しかし、聖書の言う真理が1つであるなら、そのことを解釈する道を探さなくてはならないのだ。そしてフランシスコ会とドミニコ会の学者たちは、「理性と信仰との調和」という思想を目指して働いた。そして生まれたのが、トマスの『聖なる教』の原理であった。それは自然神学とも言える。人間は、単なる理性だけでは、人間が熱望している究極の「救済」を得るに十分な神の知を持つことは出来ない。そこで神は人間の救いのために、理性を超える神についての知を、ある特別の人々(預言者、キリスト、使徒)を通して人類に啓示されたのである。この啓示はもちろん聖書の中に含まれている。ゆえに、「聖書」のうちに啓示されていることを信仰をもって受け取り、それを原理としてその上に成り立つ教えとすればよい。
 理性と信仰の関係において、『聖なる教』は、あくまでも啓示の書である「聖書」を原理としながら、その内に自然神学に関することがらを除外せず、かえってこれを包含する。自然理性(アリストテレスの真理)にもとづく神の知としての自然神学は、啓示にもとづく神学と矛盾するものでも、反対するものでもなく、却ってそれを受け入れるための前提であり、完成されるものである。 トマスは、理性の探究によって得られる神学と、啓示によって与えられる神学を対立せしめず、かえって前者を後者に秩序づけたのである。
アウグスティヌス「神の国」、トマス・アクイナス「神学大全」
 
2.フィロン(アレキサンドリア市に生まれた指導者階級)
 旧約聖書である「モーゼの五書」に関する評釈書という形式を採用して記述され、質疑問答形式で著作を行った。常に聖書の章句を寓意(アレゴリー)として解釈する傾向を示し、「比喩の原義」においては「創世記」における最初の人間アダム(原始の人間)は、人間の霊魂が発達する象徴として考えられr、この象徴的解釈方法が後世のユダヤ神秘思想体系カバラに多大な影響を与えた。その思想体系は、以下である。フィロンは数に関する秘儀あるいは比喩的な解釈を施したのである。
1→ 基本 神の数
2→ 分裂 この数から死が生まれた
3→ 身体 聖なる存在のもつ力との関連
4→ 完全数である10の潜在的状態 悪魔的な意味では情熱
5→ 五感 鋭い感覚
6→ 男性数と女性数の掛け合わせ3×2であり、身体数3の合算(3+3)
7→ 各種の素晴らしい特性の象徴
8→ 立方体
9→ 抗争 「創世記」14章に記述された抗争
10→ 完全数
 
3.荘子「道(タオ)」
 自と他がもはや対立し合うことのない状態がタオの枢軸と呼ばれている。
事物が存在し始めない状態を出発点とし、これはまさに極度の限界で、誰もそれを超えることはできない。次の仮定は、事物は存在しているが、それらはまだ分離され始めていない状態。次は、事物はある意味では分離されているが、肯定と否定が未だ始まっていない状態。肯定と否定が存在し始めると、道は衰える。そして道の衰えの後に一面的な執着心が生じる。外部から聞こえることは、耳に届くだけで、それ以上に浸透することはない。知性は分離された存在を導こうとはしない。かくして、魂は空になり、全世界を吸収する。この空を満たすものこそが道(タオ)である。
 内なる目と内なる耳を用いて、事物の核心を貫くこと。そうすると、知的な知識は不必要となる。
これを視れども見えず、名づけて「夷」という。
これを聴けども聞こえず、名づけて「希」という。
これを搏えんとすれども得ず、名づけて「徴」という。
これを無状の状、無物の象という。
これを恍惚という。
 
4.ヨハネス・ケプラー「仲介する第3者」
 「物質世界の基礎にある幾何学的原理は、アリストテレスの教義に従えば、この低次の世界を天上界に結びつける最も強い絆であり、それを共に統一するものであるので、すべての形あるものは、いと高いところより統治されることになる。」
「この占星術的共時性の特性は、肉体の中にでなく魂自身の性質の中で感受されるのである。肉体はこのようなことにためにはあまりに不適切であるが、魂はひとつの点の如く行動する。この『魂の性質』は、それらの理性的なもののみならず、もう一つの生まれつきの理性をも共有している。この理性によって、人は和声の幾何学、すなわち音楽のみならず、光の幾何学も別に長期間学ばなくともただちに了解することができる。 この特性を感受する性質がまた、天体の布置になる種の対応性を誘導する。…各人の性質は、その天体の特性を知っているだけでなく、その天体の布置や毎日の運行をも非常によく知っているので、上昇の特性、あるいは下降の位置の中へと運行するとき、これに感応して影響を受け、刺激を受ける。」
ケプラーは、対応性の神秘がこの地において見いだされると考えていて、神秘の元型を探し出し、数多くの証拠をあげている。この大地は、大地の霊魂によって活性づけられていて、形成能力があると考えていた。 さらに夢の反復は、無意識の夢の内容と意識的心性の前に運び出そうと執拗に試みていることを現しているとも述べている。
 
5.ゲーテ
神話物語のギリシャ語は、神話を物語ることに由来し、神話を物語るという活動を言い表す動詞である。ゲーテこそは、彼のプロメテウス文学をもって我々と古代の神話の語り手たちとの間を仲立ちするものである。つまり、彼はそれらの作品においては近代の神話作家なのであり、人間的な題材についてのひとつのためしを仲介するという意味を持つとともに、進路を切り拓いて行かざるをえなかったのである。プロメテウスは人間として現れることは決してない。彼は神話的な存在だからである。彼は昔から神話の中にいたからである。 プロメテウスの神話物語に対して、宗教史上、平行現象として役立ち得るのは、<人間>もしくは<原人間>;ギリシャ語ではアントローポスと名づけられたグノーシス主義の神くらいであろう。詩の中にゲーテのプロメテウスが童子神話物語として明確に描き出されていることが判る。
「プロメテウス」カール・ケレーニイ神話学研究者
 
これらの紹介はほんの一部に過ぎないものだが、真実の伝承は形や姿を変え、方法や手段を変えて生き続けていることの証しなのではないだろうか。 本物であり、真実であることが語り継がれていくことを、決して神は止めないであろうし、神の国を述べ伝える選民の使命は永遠に変わらないからであろう。
 
 最後に荒井献氏の「人類の知的遺産 イエス・キリスト」より紹介しよう。
 
 「アポフテグマ」は元来ギリシャ文学や教父学の分野において、哲学者とか聖者の逸話を彼らの言葉に中心を置いて描く、一つの文学類型を特徴づける呼称である。
アポフテグマには、「物語」と「言葉」の両側面がある。ブルトマンは、アポフテグマの物語部分を究極的には「言葉」に還元できるとみなして、これを広義の「言葉伝承」の中に入れている。」
 「ヨハネ福音書が聖書の最後に置かれているのは、これは最終的には12使徒の一人ヨハネの著作とされるに至ったものの、実際のところ、そのイエス・キリスト像が共観福音書と大きく異なっており、これはとくにグノーシス派によって好んで用いられたため、正典の中に採用されるのが最も遅れた理由による。」
 
 ヨハネの福音書の冒頭部は以下である。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1
 
ヨハネ福音書で言う「ことば」が、ロゴスであり、アポフテグマの「言葉」であると解釈するのは自然ではないだろうか。言葉の伝承だからこそ、ロゴスは生きて伝えられてゆくものであり、知的遺産なのではないだろうか。そしてそれを支えている源泉には、グノーシスの文書が語る真実の奥義であり、グノーシス−隠された知識−の伝授にふさわしい者にのみ秘密に教えられたロゴスの世界なのではないだろうか。
 
種一弓
 
更新日時:
2006/04/28
3      自然の魔法の力
 
キリスト教神秘主義者であった、エッカルツハウゼンの功績から、
「自然の魔法の力」をご紹介します。
この本を読んで、私は真実の魔術師の力と言葉が、いずれの世界においても、働きかけるものとなっていることの本当の意味を発見しました。
どうぞ、魔法の力の秘密を見つけ出してみて下さい。
きっと無意識の根源との共通点を発見すると思いますよ♪
(*^_^*)
 
 まことの魔術を知るものは、もはやきわめて少数にすぎない。というのも神が、世界全体を改造するまでは、まことの魔術が失われるにまかせたからである。まことの魔術は、人知れず生きる純粋な魂にのみ授かる。まことの魔術は、実践力学と呼ばれる三つの部分に分かれる。
 第一の部分は、延長をもつ物質の感覚的部分を理へともたらすこと、あるいは個別的な主体の表象から純粋な理による一般概念への上昇を教える。個別的感覚的認識が一般的概念的認識へと上昇するとともに、一つの物のなかに含まれているさまざまな可能性は合成・分解され、作用と反作用の類比性をとおして類比的に知覚される。これにより私たちの魂の内奥は姿を変えて認識される物そのものとなる。
したがってまことの魔術師は、迷信的な結合によってではなく、理によって仕事をなすのであり、内奥のものが調和したり対立したりする理由を理解し、説明し、さらには自然の計算と呼ばれる感覚的な計算によって計算することもできる。
 まことの魔術師は延長の仮面をはぐことができ、知性的存在を見、さまざまな力の関わり合いを見抜く。
 信仰によって私たちは、世界が神の言葉により創造され、目には見えぬものから目に見えるものが作られていることを認識する(ヘブ11・3)
 魔術の第一の部分の働きの下に位置づけられる第二の部分の働きは、霊がからだに印象を伝える仲介役となるさまざまな媒体を知ること−遠く離れた霊がいかにして互いに自分の意思を伝え合うのか、そしてある物体が他の物体を運動の同一性によって動かすように、ひとつの霊が同一性によっていかに他の霊に働きかけるのかを探究することである。
 
〔媒体については以下を参照〕
「そして主は火の炎に包まれて茂みの中から彼に現れた。そして彼は、茂みが燃えているのに燃え尽きてしまわないのを見た」(出3・2)
「そして火の炎が祭壇から天へと立ち昇ったとき、主の天使もまた炎のなかで上へと昇っていった」(士13・20)
「彼女がかくも長く主のまえに祈りつづけたので、エリは彼女の口元を注意して見た。」(サム上1・12)
「そして主はヨブに嵐のなかから答えた」(ヨブ38・1)
「最高の魔術の仕事は真理のなかでつかまれた愛と信仰による心の祈り、もしくは、認識において神をもつことである」(IIコリ3・2、ヨハ14・23)。
 
 理性においても、もしくは知性の世界において−人の内にはさまざまな知的な理性素、外にはさまざまな理性刺激や思考刺激がある。知性素の働きによってふつう精神と呼ばれている理性体が生まれ、これが人間を知性的な世界、つまりさまざまな霊の世界に結びつけている。
 人の内なる神的世界は、人の心情である。心情とは人の内なる全一体であって、これが神的な素である。神は人の外では神的刺激、すなわちあらゆる美の美そのものとして存在している。美という神的刺激が心情という神的な素に働きかけると、人と神を結びつける神的霊的な本体が生ずる。
 
 言葉がいずれの世界においても、働きかけるものとなっている。言葉には三通りある−神的な言葉、霊的な言葉、自然的な言葉。
神的な言葉においては、神性の満ち溢れる豊かさそのものがみずからを語りだす。
霊的な言葉においては、神的で霊的な言葉がキリストにあってみずからを語りだす。
そして自然的な言葉においては、神=人的な言葉がみずからを語りだしている。
この三通りの言葉の統合が、あらゆる言葉の言葉、すなわち自然の中の神的=霊的=人間的な言葉である。かつて、霊的なものは神的なものに従い、自然的なものは霊的なものに従っていた。そして、神は霊の裡に、霊は人間の裡に宿っていた。このため以前には、神的な世界と霊的な世界と自然的な世界は密接に結びついて一つになっていたのである。
 この統合は人間の意思によって破壊され、かくて、上から下されるさまざまな影響は断ち切られた−こうして秩序の混乱のために、悲惨と死がこの世にもたらされた。
失われた秩序は、神的なものが霊的なものと、霊的なものが自然的なものと一つになるときにのみ、回復できる。
この再統合こそが、救済の目的であった。
キリスト、父が語りだした言葉― キリスト、霊の世界の中心、神の力の働く、神性の純粋な器−キリストのみが統合を回復することができる。なぜならば、キリストの神とつねに一致していた意志は、からだと霊をとおして自然と人間の本性を身に帯びることによって、自然的なものをつなげてふたたび霊の尊厳にまで高め、さらにこれを神的なものとふたたび一つにすることができたのである。
知恵と愛をとおして、霊と心によって、キリストは、霊的なものを神的なものにつなげ、血と肉によって、自然的なものを霊的なものにつなげる。血と肉はキリストの人間的なものであり、知恵と愛はキリストの霊的なものである。
さて、キリストの血と肉とは何か。
肉とは、人が生きる場となる容器であり、血とは、人を生かすものである。
 
人間の現在の光は官能性から借りてきたものでしかないので、科学へと導くことはできても、決して知恵へとは導けない。人間は霊の尊厳を失い、生まれつきの理性能力をもつただの動物になった。
 この動物人間をふたたび神人につくり変えること、高めることが、神の知恵の決断であった。救済のこの目的を実現するには、神の知恵がみずから降らなくてはならなかった。神人だけが、動物人間をふたたび霊の人に高め、人間の霊と自然の救済をふたたびもたらすことができた−人間の霊と自然の救い主となることができた。
神の栄光、光 −神の子は人間となったのである。
 神の子の霊的な目的は、まことの光である神の子そのひとに対する信仰を目覚めさせ、自然の理性の光ではなく、知恵そのものである、より高き光こそが人を至福に導くのだということを人に気づかせることにあった。
 この知恵は自然的悟性の思弁によって得られるものでなく、信仰と心の単純さに対して恵まれるものである。そしてこのような知恵によってのみ、知恵そのものも得ることができるのである。
 これを教えること、この教えを強めることが、神の子が神的な理性人として遣わされた目的であった。神的な官能人としての神の子にも同様に大きな目的があった。
 神的な霊人として、官能をもつ神人として、世の光として、
神の子の目的は、人間の霊的本性と官能的本性を完全性へと高めること、こうして、理性の世界と官能の世界に分かれている人間の世界を全体として救済することにあった。
 
 
更新日時:
2006/04/24
4      霊のいのちの法則と無意識
ここで、ジェシーペン・ルイスの聖書解釈より少し引用してみたいと思います。
 
 『大多数のクリスチャンは、「魂」と「霊」の区別について知りません。 おもにこの知識の欠如が原因で、多くの献身的な信者たちは霊のいのちのまったき成長に欠けています。』 という文から始まるのは、「魂と霊」という題で書かれた、ヘブル人への手紙4章12節のみことばについての解釈文です。
 後半最後になると、霊のいのちの法則について、明らかな見解を示しています。
 
―霊にしたがって歩むには次のことが必要です―
(1) 何が霊であるのかを知らなければならない。
(2) 自分の霊を識別できなくてはならない。
(3) 自分の霊が悪霊どもの毒によって触れられた時、それを見抜かなければならない。
(4) いつ自分の霊が、魂と体を支配する正しい地位にあり、戦いや状況といった非常事態によって許容限度以上に駆り立てられていないのかを、知らなければなりません。
と言っています。
 そして、人の霊は、神の霊と接触しているなら光で満ちる電球のようである。とも、人の霊は、ゴムのようであるともたとえています。 縛られたり、圧迫されたり、加重がかかったりすると、動くのをやめて力をたくわえ、一気に「跳ね上がり」ます。だからこそ、圧迫を感じたら、その圧迫が何であるかを突き止めなさい。 人の霊は、縛られているか、自由であるかです。
 
とキリスト者の霊の奥義について、説明をされました。
 これを読んだとき、私の霊が震えたのを覚えています。 それはまるで、とても強い電流に触れたような感覚でした。 なぜなら、私が無意識について考えている概念と非常によく似ているし、まるで無意識の力を説明しているかのように感じたからです。
 使徒と呼ばれた人たちは、「霊的な」人たちだけが、それらを識別したり、確かめたりすることが出来るとも述べています。
ユングが心理学において、無意識構造について掴み取った真実は、キリストのいのちの法則の中に類似する原像を見たからに他ならないのではないでしょうか。
 霊のいのちを持つことこそ、無意識の開放であり、錬金術による純然たる物質、ラピスであり、グノーシス主義の認識することなのではないかと思うのです。
ハッピーパッピー無意識ハッピー(*^。^*)
 
 
更新日時:
2006/04/18
5      クムランの洞窟から発見された古文書
神の言葉である聖書を信じるキリスト教信者にとって、聖書は絶対です。
新約聖書の福音書が今の聖典として選択されたとき、もしかしたら選択されなかった文書があったなどと考えることすら不信仰だと叱られそうなことが実際にあったとしたら、現代のクリスチャンは驚くでしょう。さもなければ、異端として退かれてしまうことでしょう。
しかし、実際には古文書として発見された数々のテクストは聖書解釈に決定的な影響を与えることとなったのです。
「我々がキリスト教とよんでいるもの―伝統と確認しているもの―が、実際は、多数の資料の中から選択されたごくわずかな特定の資料に基づいていたもんであることが、今日分かりかけてきた。誰が、いかなる理由でこの選択をなしたのか。何故他の文書が排斥され、『異端』として追放されたのか。…今日ナグ・ハマディ文書が発見されてから我々は、この研究過程において、キリスト教の起源に関して驚くほど新しい展望を得ることができるであろう。」
とエレーヌ・ペイゲルスは書物の中で語っています。
「ナグ・ハマディ写本」初期キリスト教の正統と異端 荒井献訳 白水社
 
紀元後70年頃、ユダヤ教にはさまざまな派や集団があったが、それらは紀元前二世紀頃にはすでに存在していたことが確認されている。…サドカイ派、ファリサイ派、文書研究者の職業的集団であったソフェリームなどがある。そして、ヘブライ語で敬虔な人々を意味する言葉である「ハシディーム」と呼ばれているグループがあり、そこからエッセネ派が生まれた。様々な文献から、イエスもヨハネもエッセネ派に属していたともうかがえる発見がある。さらに、エッセネ派のうちのエルサレムから逃れ、クムランに移り住んだ人々の集団、いわゆるクムラン宗団の考え方は、ヨセフスによると、一般の多くの人々に影響を与えていたと言われ、彼らの800巻もの残された文書は、その当時のユダヤ教におけるテクスト解釈の方法にとって比類ない証言であったようである。 義の教師と呼ばれる最終的な権威者が創設者としてみなされており、神は義の教師の心に神の言葉を解釈するための洞察力を与えていたといわれている。そして、クムラン宗団は、自分たちが終末の到来の時代に生きていると考えていたということである。 さらにエッセネ派は常に期待を変化させながらも、本当にメシア待望を意識して生きていたと言えるようである。
参考資料(黙示的思想とクムランにおけるテクスト解釈 ハンス・ヨアヒ)
 
『我々は何者であったか、また、何になったのか。我々はどこにいたのか…どこへ行こうとしているのか。我々は何から解き放たれているのか。誕生とは何か、また、再生とは何か。しかし、自己をもっとも深いレベルで認識することは、同時に神を認識することである。そして、これこそが、グノーシスの奥義なのである。』
 グノーシス主義の教師テオドトス(140年頃)
 
東方ヴァレンティノス派は、キリストの身体なる教会は「純粋に霊的」であり、グノーシスを受けた霊的な人々だけで成り立っていると主張した。東方派の偉大な教師テオドトスは、教会を「選民」「創世以前に選ばれた者」と定義した。彼らの救いは確実であり、予定されており、排他的なものであった。直接インスピレーションを受けた者だけが、「霊的教会」に属すると教えていた。
 
そして、C・G・ユングは、ヴァレンティノスの創造神話を心理的な様々な過程についての描写として解釈していた。そのヴァレンティノスは、いかにして万物が「深み」「深淵」に―精神分析学の用語では、無意識に―由来するかを物語る。この「深み」から<心>と<真理>が生じ、次いで<言葉>と<命>が生じる。そして、人間を出現せしめたのは、言葉であった。ユングはこれを、人間の意識の発生に関する一つの神話的記述として呼んだのである。
とペイゲルスは語っている。
 
どうでしょうか?
正統派が4福音書を聖典とした聖書を真実だとすればするほど、グノーシスを脅威と感じて排斥してしまおうとする圧力をかけざるを得ないという背景が見えてはきませんか?
私は古文書の調査研究に取り組んでいる多数の学者の方々が、驚くほど新しい展望と結果を持って、登場してこられるのを楽しみに待っていたいと考えるのです。
 
ちなみに、調査研究者のタイプは3つの研究方向に分類されているそうです。
第一の研究方向
★ヘレニズムの哲学に対するグノーシス主義の関係について
★魔術史の研究に関して
第二の研究方向
★グノーシス文書を文学的・様式批判的観点から調査する
★グノーシス文書に見られる豊富な象徴主義を研究
★文書の文学類型と修辞的表現の研究
★グノーシス的隠喩、神話、文学形態の理解
★グノーシス神話がいかにユダヤ教の伝統的な素材に依存していたかを研究
第三の研究方向
★グノーシス主義とその時代の宗教的環境との関係の解明
★グノーシス文書がキリスト教の起源に関して我々に何を語っているか、という問題の研究(これに荒井献先生が加わっております)
★グノーシス主義の起源の問題の考察、諸形態が正統派とどのように関わり合っているか
 
 
2006/

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