人類の歴史を揺るがせるほどに驚く古文書が発掘され、解読されつつあります。
少し長くなりますが、追いかけてみたいと思います。
新たに発見されたパピルス文書『ユダの福音書』に描かれていたユダ像は、従来の記述とはまるで違っていた。ユダこそが英雄であり、他の弟子たちと違ってキリストの教えを正しく理解していた…
20世紀に入り、グノーシス派の文書であると言われた「トマス福音書」「ピリポ福音書」「真理の福音」「ヨハネのアポクリュフォン」などがナグハマディ文書として発見されたことに続き、ユダの福音書が発見されたと言うことは、まさに奇跡という表現が相応しいのではないだろうか。
そこには、遥か遠い昔、キリスト教グノーシス派と正統派教会との間に繰り広げられていた闘争のありさまが、はっきりと刻まれていたそうである。 真実の救いが永遠の眠りから目覚めたと言っても過言ではないだろう。
この発見は、私にとって描いていた幻想を立証するに値する素晴らしい事実である。
当時の正統派キリスト教徒は、イエスの教えを報じる多くのグループの一つに過ぎなかった。エッセネ派を含む多彩な分派グループの多くはグノーシス派であったと推察されている。
その頃のキリスト教は、一貫性を持った統一された教義を暗中模索していたようである。そこで司教であったエレイナイオスが『異端反駁』の執筆をし、グノーシス派を異端と断じて目の敵にしたのである。権威を用いて真っ向から対立していた思想を消し去ろうとしたのである。そして、統一を図るために、現在の四福音書を含む文書のみを聖書の正典として位置づけ、他の数多くのキリスト教文書は闘争ゆえに、次々と破棄され、失われていったのである。キリスト教司教たちによって、完全に支配されたキリスト教国では、異端としての書物を持つことは犯罪行為とされた。さらに、正統派は教会の外に「救済はない」と宣言したのである。グノーシス派の教徒らは、カトリックと呼ばれる多数の目から隠れるため、またイエスに関する秘密の伝承を破壊から救うため、荒野の洞窟や土中に禁書をしたため、大地に望みを託したのであった。
正統派の主張:
「神の子イエス・キリストだけが、人間であると同時に神でもある」
「教会の外には真の救済はない」
「人間を神から区別するものは、本質的相違の他に、人間の罪であるという伝統的ユダヤの教えに従う」
「肉体の復活を否定する者は異端者である」
グノーシス派主張:
「普通の人間も神と直接交わることができる」
「罪ではなく、無知が人を苦悩に巻き込む」
「人間の魂の内部で神性の火花が散り、神との結びつきを取り戻す。この覚醒の中にこそ、救いが存在する。覚醒のためには師の導きが必要であり、それがキリストの役割であり、キリストの教えを完全に理解した者は、キリストその人と同様の神性を持ち得る」
教義を重んじる正統派の聖職者たちを「偽りの祭司」と准えてイエスの真の姿を理解するように迫ったことなど『ユダの福音書』には明らかにされているようである。
私たちがキリスト教と呼んでいるもの、伝統と確認しているものが、実際には多数の資料の中から選択された、ごくわずかな特定の資料に基づいていたものであったという驚くべき真実が明らかになりつつある。 いったい誰が、何の理由でこれらを選択し、他の文書を異端として追放したか? 基準になったものは、キリスト教の教義を統一するため、制度化された宗教としての発展に反するような意味合いを持つ思想は、「異端」であり、発展を暗に支持するような思想であれば、「正統」として認められたというのである。 恐るべし宗教のからくりと言わざる得ない…。
グノーシス派の主張する奥義は、自己の最も深いレベルで認識することは、同時に神を認識することだとしており、次の問題の認識に達した人のことであるとしている。
* われわれは何者であったか。また何になったのか。
* われわれはどこにいたのか。どこへ行こうとしているのか。
* われわれは何から解き放たれているのか。
* 誕生とは何か、また再生とは何か。
イエスの真実の教えを理解するものは、イエスの指示に従ってその秘教を秘密にしたのである。霊的に円熟していることを立証した特定の者、「グノーシス」−隠された知識−の伝授にふさわしい者にのみ秘密に教えられたのである。 グノーシス派の教師、テオドトスはこう述べていた。
「各人は、その人自身の仕方で主を認め、その仕方は同様ではない」
このグノーシス(覚知)に達したものは誰でも、「解放」と呼ばれる秘密の典礼を受けることができるようである。
イエスは弟子たちに「私に合わせてアーメンを答唱しなさい」と指示し、神秘的な讃美の歌を歌い始めた。
「踊る者、宇宙に属す」・・・アーメン
「踊らざる者、生じ来ることを悟らず」・・・アーメン
「山が踊りに加わり、汝自身を見いだすべし、語る我の只中に。
踊る汝、わがこと悟らん、げに汝のものなるゆえに、我蒙らんとする<人>のこの苦しみは。
げに汝の苦しみ、汝悟り得ざるべし、我御父より<言葉(ロゴス)>として
汝のもとへ遣わされてあらざれば。苦しむことを学ぶべし、
されば苦しむことあたわざらん」・・・アーメン
ヨハネのアポクリュフォンからの引用である。
これらの闘争に巻き込まれず、キリストを信じるがゆえに別の道を切り開き、真実の伝承を後世に伝えるために働いたものが数知れぬほどいたということを知ることは慰められることである。
1.トマス・アクイナスの『聖なる教』
アリストテレスは理性にもとずく哲学者である。聖書に記されていることは、神から啓示された超理性的真理であり、我々はこれを信仰を持って受け入れなければならない。理性の立場においてはアリストテレスに従い、魂の普遍的単一性と世界の永遠性とを「真理」として承認する。それにもかかわらず、キリスト者である限りにおいては、聖書に述べられていることがらを「真理」として承認する。「理性の真理」と「信仰の真理」という2つの異なる真理の体系を認め、両者は立場が異なるのだから、たとえ矛盾しても差し支えない。 しかし、聖書の言う真理が1つであるなら、そのことを解釈する道を探さなくてはならないのだ。そしてフランシスコ会とドミニコ会の学者たちは、「理性と信仰との調和」という思想を目指して働いた。そして生まれたのが、トマスの『聖なる教』の原理であった。それは自然神学とも言える。人間は、単なる理性だけでは、人間が熱望している究極の「救済」を得るに十分な神の知を持つことは出来ない。そこで神は人間の救いのために、理性を超える神についての知を、ある特別の人々(預言者、キリスト、使徒)を通して人類に啓示されたのである。この啓示はもちろん聖書の中に含まれている。ゆえに、「聖書」のうちに啓示されていることを信仰をもって受け取り、それを原理としてその上に成り立つ教えとすればよい。
理性と信仰の関係において、『聖なる教』は、あくまでも啓示の書である「聖書」を原理としながら、その内に自然神学に関することがらを除外せず、かえってこれを包含する。自然理性(アリストテレスの真理)にもとづく神の知としての自然神学は、啓示にもとづく神学と矛盾するものでも、反対するものでもなく、却ってそれを受け入れるための前提であり、完成されるものである。 トマスは、理性の探究によって得られる神学と、啓示によって与えられる神学を対立せしめず、かえって前者を後者に秩序づけたのである。
アウグスティヌス「神の国」、トマス・アクイナス「神学大全」
2.フィロン(アレキサンドリア市に生まれた指導者階級)
旧約聖書である「モーゼの五書」に関する評釈書という形式を採用して記述され、質疑問答形式で著作を行った。常に聖書の章句を寓意(アレゴリー)として解釈する傾向を示し、「比喩の原義」においては「創世記」における最初の人間アダム(原始の人間)は、人間の霊魂が発達する象徴として考えられr、この象徴的解釈方法が後世のユダヤ神秘思想体系カバラに多大な影響を与えた。その思想体系は、以下である。フィロンは数に関する秘儀あるいは比喩的な解釈を施したのである。
1→ 基本 神の数
2→ 分裂 この数から死が生まれた
3→ 身体 聖なる存在のもつ力との関連
4→ 完全数である10の潜在的状態 悪魔的な意味では情熱
5→ 五感 鋭い感覚
6→ 男性数と女性数の掛け合わせ3×2であり、身体数3の合算(3+3)
7→ 各種の素晴らしい特性の象徴
8→ 立方体
9→ 抗争 「創世記」14章に記述された抗争
10→ 完全数
3.荘子「道(タオ)」
自と他がもはや対立し合うことのない状態がタオの枢軸と呼ばれている。
事物が存在し始めない状態を出発点とし、これはまさに極度の限界で、誰もそれを超えることはできない。次の仮定は、事物は存在しているが、それらはまだ分離され始めていない状態。次は、事物はある意味では分離されているが、肯定と否定が未だ始まっていない状態。肯定と否定が存在し始めると、道は衰える。そして道の衰えの後に一面的な執着心が生じる。外部から聞こえることは、耳に届くだけで、それ以上に浸透することはない。知性は分離された存在を導こうとはしない。かくして、魂は空になり、全世界を吸収する。この空を満たすものこそが道(タオ)である。
内なる目と内なる耳を用いて、事物の核心を貫くこと。そうすると、知的な知識は不必要となる。
これを視れども見えず、名づけて「夷」という。
これを聴けども聞こえず、名づけて「希」という。
これを搏えんとすれども得ず、名づけて「徴」という。
これを無状の状、無物の象という。
これを恍惚という。
4.ヨハネス・ケプラー「仲介する第3者」
「物質世界の基礎にある幾何学的原理は、アリストテレスの教義に従えば、この低次の世界を天上界に結びつける最も強い絆であり、それを共に統一するものであるので、すべての形あるものは、いと高いところより統治されることになる。」
「この占星術的共時性の特性は、肉体の中にでなく魂自身の性質の中で感受されるのである。肉体はこのようなことにためにはあまりに不適切であるが、魂はひとつの点の如く行動する。この『魂の性質』は、それらの理性的なもののみならず、もう一つの生まれつきの理性をも共有している。この理性によって、人は和声の幾何学、すなわち音楽のみならず、光の幾何学も別に長期間学ばなくともただちに了解することができる。 この特性を感受する性質がまた、天体の布置になる種の対応性を誘導する。…各人の性質は、その天体の特性を知っているだけでなく、その天体の布置や毎日の運行をも非常によく知っているので、上昇の特性、あるいは下降の位置の中へと運行するとき、これに感応して影響を受け、刺激を受ける。」
ケプラーは、対応性の神秘がこの地において見いだされると考えていて、神秘の元型を探し出し、数多くの証拠をあげている。この大地は、大地の霊魂によって活性づけられていて、形成能力があると考えていた。 さらに夢の反復は、無意識の夢の内容と意識的心性の前に運び出そうと執拗に試みていることを現しているとも述べている。
5.ゲーテ
神話物語のギリシャ語は、神話を物語ることに由来し、神話を物語るという活動を言い表す動詞である。ゲーテこそは、彼のプロメテウス文学をもって我々と古代の神話の語り手たちとの間を仲立ちするものである。つまり、彼はそれらの作品においては近代の神話作家なのであり、人間的な題材についてのひとつのためしを仲介するという意味を持つとともに、進路を切り拓いて行かざるをえなかったのである。プロメテウスは人間として現れることは決してない。彼は神話的な存在だからである。彼は昔から神話の中にいたからである。 プロメテウスの神話物語に対して、宗教史上、平行現象として役立ち得るのは、<人間>もしくは<原人間>;ギリシャ語ではアントローポスと名づけられたグノーシス主義の神くらいであろう。詩の中にゲーテのプロメテウスが童子神話物語として明確に描き出されていることが判る。
「プロメテウス」カール・ケレーニイ神話学研究者
これらの紹介はほんの一部に過ぎないものだが、真実の伝承は形や姿を変え、方法や手段を変えて生き続けていることの証しなのではないだろうか。 本物であり、真実であることが語り継がれていくことを、決して神は止めないであろうし、神の国を述べ伝える選民の使命は永遠に変わらないからであろう。
最後に荒井献氏の「人類の知的遺産 イエス・キリスト」より紹介しよう。
「アポフテグマ」は元来ギリシャ文学や教父学の分野において、哲学者とか聖者の逸話を彼らの言葉に中心を置いて描く、一つの文学類型を特徴づける呼称である。
アポフテグマには、「物語」と「言葉」の両側面がある。ブルトマンは、アポフテグマの物語部分を究極的には「言葉」に還元できるとみなして、これを広義の「言葉伝承」の中に入れている。」
「ヨハネ福音書が聖書の最後に置かれているのは、これは最終的には12使徒の一人ヨハネの著作とされるに至ったものの、実際のところ、そのイエス・キリスト像が共観福音書と大きく異なっており、これはとくにグノーシス派によって好んで用いられたため、正典の中に採用されるのが最も遅れた理由による。」
ヨハネの福音書の冒頭部は以下である。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1
ヨハネ福音書で言う「ことば」が、ロゴスであり、アポフテグマの「言葉」であると解釈するのは自然ではないだろうか。言葉の伝承だからこそ、ロゴスは生きて伝えられてゆくものであり、知的遺産なのではないだろうか。そしてそれを支えている源泉には、グノーシスの文書が語る真実の奥義であり、グノーシス−隠された知識−の伝授にふさわしい者にのみ秘密に教えられたロゴスの世界なのではないだろうか。
種一弓
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