無意識を認識するために…

 C・G・ユングは、錬金術という様々な一見すると不可思議な象徴モチーフ的現象を、
心という視点から理解しようと試みました。

心という観点を中心として多くの象徴を紐解いていくとき、そこでユングは
意識とは似ても似つかないだけでなく、自己の無意識ですら理解することのない
普遍的・集合的無意識という世界に出会うこととなったのです。
そこにあったのは、何百年何千年という時の流れの中でもまったくといっていいほど
変化を示さず、二千年前の真理もなお色あせることなく、現在過去未来の
どの地点においても同一であり続けてきた、基本的な心的諸事実を見いだしたと
その著書の中で述べています。

それが現代心理学をそして人の心の無意識を解明するために、どれほど貢献的要素を提供してくれたのかは測り知ることが出来ないほどだと思います。

その無意識が語るところの心的事象については、夢や空想、妄想は幻のような形をとって素材として現れることもあり、また詩的な想像力の産物や宗教的な象徴言語としても観察することができるとユングはいいます。

それらは決して意識的ではなく、無意識的に現れることで様々なモチーフを提供し、私たちの意識として認識できるよう、また統合できるよう素材を提供してくれるのです。

意識する自分が自分そのものだ、とする考え方そのものをユングは無知を告白することなく自分を意識しているとして「無知蒙昧の徒」などとして表現しています。
これは無知なことを揶揄しているのではありません。
それは、自分の意識の理解出来ないことを理解しようとしない傲慢な意識を揶揄しているのではないでしょうか。

私たち人間は、無意識という言葉を大きく誤解しています。

「無意識にやってしまう」とか「それは無意識にそうしてるだけだ」とか無意識があたかも自分の無知さを弁解するような概念として使用しています。それは大きな誤りです。
無意識がどれだけ、意識に貢献し、意識を支えているか、無意識がどれだけたくさんの要素を送り込もうとしているかを知らないだけだと思います。

心理学でしか学ぶことのない「心」の神秘、成長過程で知ることのない「無意識」という言葉と概念、普通我々が知らないのが当たり前の世の中ですから、仕方ないのでしょう。
もっと心について私たちは学ぶ機会を増やすべきではないでしょうか。
数学や英語、国語や化学を学ぶと同じように、こころの神秘についても
小さい頃から学ぶことのできる環境を提供出来るような社会になったらよいのに…
と願っています。

無意識は、絶対的真理を導き出してくる原像の特定する
中心的概念だと私は理解しています。

無意識について